●スコットランドが好きになったのは、季節外れのセントアンドリュースを訪れてからだ。冬がすぐそこにやってくる晩秋。そこでダンヒルカップが開催された。僕は、パーティ出席のためにタキシードを持参して、優雅なパーティにも出席した思い出がある。泊まったホテルは、オールドコースホテル。朝、目覚めると、窓の外に17番ホールが見える。その、朝な夕なの風景が、いまでも焼きついている。
||||||||||GQ Japan 1995/02||||||||||

ゴルフの原風景ここにあり
【晩秋のスコットランドでダンヒル・カップ国別対抗戦を見る】

ツームストーン(墓石・墓碑)というゴルフのゲーム方式がある。いつか僕は、この方式でプライベートなコンペを開きたいと思っている。できれば、100人以上の仲間が集まると楽しい。
ルールは、実に簡単明瞭である。
オフィシャルでもプライベートでもいい。
あらかじめ自分たちのハンディキャップを、まず取り決めておく。かりに僕のハンディキャップが18だとしよう。すると、パー72のコースで1番ホールから出て、90ストローク打った時点で、僕のゲームは終わりになる。ハンディを含めた総打数で、どのホールまで進めるかを競うゲームなのだ。
自分が、自分の能力(ハンディキャップ)を使い果たした場所に、署名した石を置いて、トボトボとクラブハウスへ引き返すのである。人によって、13番ホールの第2打地点だったり、14番のグリーン上だったり、あちらこちらに墓碑のように名前を記した石が置かれるから、ツームストーンと名づけられたのだ。
運よく、絶好調でハンディを使い果たさずにいると、そんな仲間のツームストーンがいっぱい並んでいく風景を見ながら18番ホールまで辿り着くことができる。それでもまだストロークが残っていれば、再び1番ホールに向かっていいのだ。

いつ、誰がこんなゴルフの遊び方を考え出したのか、定かではない。けれども、ゴルファーにとって、18番ホールまで辿り着けないで石を置くというのは、かなりの挫折感や屈辱感であることは間違いない。精神的に、苛酷で遣る瀬ないゲームでもある。もちろん、僕が開くコンペでは、自分が最後まで生き残るつもりでいる。そして仲間たちのツームストーンが点在するフェアウエイを闊歩したいに決まっている。その光景を想像しただけで、ゴルファーは心が満ち足りるから単純で不思議なものだ。
ゴルフが面白いのは、そのギャップであり、なかなか思うようにいかないからだ。簡単にねじ伏せることができない。それでいて、あと一歩という手ごたえをいつも感じる。奥行きが深く、幅広いゲームだ。

10月、スコットランドは晩秋である。
それにゴルファーにとっては少し、季節はずれの風景である。スコットランドやイングランドは、全英オープンが開催される7月がピークとなる。4月のマスターズ、6月の全米オープンとふたつのメジャーを経て、7月の夏を迎えるのだ。
セントアンドルーズ、カーヌスティ、ミュアフィールド、ターンベリー、トルーン、プレストウイックなど数え切れないほどのリンクスランドのコースがあるから、ゴルフ発祥と歴史の旅には、ことかかない。最近では、アイルランドまで足をのばすゴルフの旅人も増えている。ほんとのリンクスランドのコースは、スコットランドよりもアイルランドにある、という声が多くなっているからだ。いずれにせよ夏の季節になると、観戦を挟んでゴルファーの聖地巡礼の旅はトップシーズンを迎え、8月のなかばを過ぎると、急に静まり返ってしまうのである。

僕は、この季節はずれの風景で彷徨っていた。
セントアンドルーズで開かれるダンヒル・カップの取材が旅の目的だった。でも、日本からロンドン・ヒースロー空港、そしてエジンバラへと直行したくなかった。せっかくメッカへ向かう旅である。少し遠回りの巡礼も悪くないと思ったからだ。

世界マッチプレー選手権が開催されるウエントワース・ゴルフクラブは、ヒースロー空港から20分足らずのバージニアウオーターにある。すぐ近くにはロンドン大学がある。英国の典型的なインランドコースで、1925年にまず最初の18ホール(イーストコース)が完成した。そして次に世界マッチプレーで使われるウエストコースができた。いまは、もう18ホールが完成し全部で54ホールある。東も西も設計は、ハリー・コルトである。彼は、世界屈指といわれ、常に世界ベストコースNO1に選ばれている米国のパインバレーを設計したコースデザイナーでもある。
スタートする前に「君たちのハンディキャップは、いくつかい?」と改めて訊かれた。
ウエストコースは、ハンディが15以下でないと回らせてくれない。欧州赤松をバーチカルハザードや修景にして、まるで紅葉の回廊を歩くような趣きがある。ロードデンドロン(シャクナゲ属の花木)、ヘザーの深いラフ、水、それにOと、さらには小さいグリーン……今日の林間コースの原型を思わせる。
気がついたら一緒に回っていた仲間たちが、無口になっていた。まるで聖地へ溯るための洗礼を受けたようだった。

エジンバラの街は、スコットランドの中東部にあってグラスゴーに次ぐ第2の都市である。
緯度でいえばちょうどモスクワやサハリン(樺太)の北端とほぼ同じところに位置していて、かつては政治、経済、学術、文化の中心地だった。この街の周辺にも、ゴルフコースはたくさんある。
全英オープンの開催コースのひとつであるミュアフィールドもそうだ。《オナラブル・カンパニー・オブ・エジンバラ・ゴルファーズ》のホームコースが、ミュアフィールドである。このクラブは1744年に創立された世界最古のゴルフクラブである。

クラブ……
その昔、英国のオックスフォードの学生たちが、気心の知れた仲間たちが当時、街のあちこちに生まれたコーヒーハウスに集まっては雑談していた、その集まりを称した言葉だった。それがいつしか文化人や著名人に広まってあちこちの《クラブ》組織が誕生したという。
「彼を僕たちのクラブに入れたい」という場合、仲間たちの承認が必要である。「うん。そうだね。彼なら我々のクラバブルマン(クラブにふさわしい男)だと思う」というやりとりが交わされていた。
エジンバラでも、きっとそんなクラブライフが生まれたのだ。ヨーロッパの中でも《クラブ》が特に英国でさかんになったのは、当時の英国の時代の流れと無関係ではなかった。どのクラブも、格式や調和、仲間意識という意味では、襟を正し、人間性や知性、あるいは雰囲気を重視するということでは、強烈な個性があった。

ウオルター・ヘーゲンというプロゴルファーがいた。
彼は、1920年代に大活躍した選手で、その技術は「ピアニストのタッチと金庫破りのデリケートさを持つ」とも表現されていた。全米オープンに2回、全英オープンに4回、そして全米プロに5回優勝した男である。彼は、プロフェッショナルとしてのプライドも強く、従って、アマチュアゴルファーだったボビー・ジョーンズが創ったマスターズには、1、2度しか出なかった。
その当時、クラブハウスの中にはプロゴルファーは入れなかった。ハウスは、メンバーのためにあって、プロのためにではなかったからだ。クラブのメンバーであるということがすべてのプライオリティーだったのだ。
ヘーゲンは、そのコースでの大会では必ずクラブハウス前に、まっ白なロースルロイスを乗りつけて、これみよがしにその中で服を着替え、食事をとり、インタビューを受けていた。それはささやかな抵抗だった。プロとしてのプライドの表れだった。
そのヘーゲンが、ある日、プリンス・オブ・ウェールズと一緒にゴルフをした。サンドイッチにあるロイヤルセント・ジョージのコースだった。前半を終えて何か飲もうじゃないかということになり、ウェールズは彼を連れてクラブハウスに入っった。
ハウスの入り口には、重圧な燕尾服を着たボーイがいた。そして、プリンス・オブ・ウェールズに近づいて耳元で囁いた。するとプリンスはまっ赤な顔で怒った。
「何を言っているんだ。彼は私のゲストだ。もし彼を中に入れないというのなら、このコースから《ロイヤル》の言葉をとってやる」
プロゴルファーが、クラブハウスに入れるようになったのは、この出来事からである。

さて、この《オナラブル・カンパニー・オブ・エジンバラ・ゴルファーズ》のゴルフクラブも、同じだった。
仲間たちが、最初は5ホール分の公有地のリンクスをリースしてプレーしていた。けれどもパブリックコースだったために、そのうち混雑してクラブとしての活動ができなくなったのである。そこでマッセルバラに本拠地を移した。1774年である。けれども、このマッセルバラのリンクスも公有地であってパブリックコース。結局、いまの土地を1891年にクラブが購入し、翌年に開場したのであった。

マッセルバラのリンクスコースは、いまも残っている。
9ホールでパブリック。
競馬場と同じ敷地のリンクスランドにある。
たずねてみると、ここで全英オープンが、6回開催されたとは思えないコースだった。
ミュアフィールドとは、異母兄弟のようなロイヤル・マッセルバラ・ゴルフクラブがある。このクラブは、パブリック時代に生まれたクラブで、ミュアフィールドとは別に新たにゴルフコースをつくったのだ。

僕は、そこをたずねてみた。
クラブハウスは、ちょっとした城を思わせる建築物だったけれど、やけに荒廃している。スタートを受け付けるプロショップは、その建物の隣りにあった。
「君たち、このコースを回るのは、初めてかい?」と、ヘッドプロに訊かれた。「そうだけど」と僕は、こたえた。
「じゃあ、前のグループについて行けば、コースは解るからね。グッドラック」
もちろん日本と違って、キャディもいない。
アメリカと違って電動カートでまわるわけでもない。
コースレイアウトが、スコアカードにあるわけでもない。セルフである。自分のキャディバッグを二輪のカートに乗せて、自分で引っ張って行くのだ。
1番ホールは、349ヤード、パー4だった。
クラブハウスの左横から平行してフェアウエイがある。その奥にグリーンが見えた。僕らの前の組は、老人が、たったひとりでプレーしていくつもりらしい。
真っすぐなホールだな、と僕は思って落としどころを参考にしようと、その老人をみつめていた。ティアップしている。次の瞬間、僕は思わず「えっ」と声を出しそうになった。フェアウエイにまるで背中を向けるようなスタンスをとったからだ。しかも、よく見たらクラブは、ドライバーでなくショートアイアンだった。確か、パー4である。僕の頭はパニックになった。
老人は、何事もなかったようにボールを打った。
まったく違う方向にボールは飛んで行った。
その奥に確かにグリーンが見えた。
「あっ、クロスカントリーだ!」
僕は叫んでしまった。
噂には聞いていたけれど、実際にクロスカントリーゴルフのプレーを見たのは、これが初めてだった。

クロスカントリー。
学生時代に、そんな競技を体育の授業でやった覚えがあるはずだ。山越え谷越え、ダートコースを設定して走り回る競技だ。ゴルフでも、それは昔から存在する。1番ティグランドから、クラブハウスを越えて、14番ホールのフェアウエイ。そして16番グリーン……。そうやってクロスカントリーのルートを決めてスコアを競うゲーム方式なのだ。日本でもかなり昔に、年に1度ほどクラブのメンバーが、その競技をしていたと聞いたことがある。
老人は、数ホールのクロスカントリーを楽しんで家路に戻っていった。

遅い午後から黄昏どきが近づくころ、それはゴルフコースが最も美しい時間である。僕たちのゴルフも佳境に入っていた。けれども10月は、ゴルフをするには、少し寒すぎる。よほど運のよい小春日和の1日でないかぎり、コースで楽しみのゴルフは、望めそうにない。とくに、夕暮れどきの海風は、体をブルブルと震わせる。僕たちは18番ホールをホールアウトしたのは、そんな時刻だった。
セントアンドルーズの町は、このエジンバラ郊外のマッセルバラから車で1時間半はたっぷりかかる。フォース湾をぐるりと半周した対岸の向こう側にある。北海に面したイーデン川河口の細長いリンクスランド周辺だ。

クラブハウスのバーで、ともかくコーヒーでも一杯すすって、車に乗るつもりだった。ハウスの2階へ続く石段は、かなり擦り減ってうねっていた。
「コーヒーを!」と僕が注文すると、紺のブレザーを着た白髪の老人が、
「えっ、コーヒーだって?ビールにしなさい、ビール」と急に声をかけてきた。少し酔っている。
「いや、これからセントアンドルーズまで車で行くんです」
「なおさら、いいじゃないか。ビールでひと息入れて出かけなさい。うちの外に、どこのクラブでプレーしたんだい」
「ウエントワースです」
「イングランドよりスコットランドのほうが、絶対に美しい。あんな空気の悪いところでよくプレーするな」

あとで知ったのだが、その老人はこのクラブのプレジデントだった。よく見れば、ブレザーにロイヤル・マッセルバラの古ぼけたエンブレムをつけていた。車のエンジンをかけたのは、それから1時間半後になった。数人のメンバーと酔いどれのプレジデントが、テーブルに集まって、僕らを肴にクラブライフを楽しんでいた。

ダンヒル・カップは、セントアンドルーズで開かれた。
僕たちが、オールドコースホテルに到着したのは、夜の9時近かった。この大会は、国別対抗戦である。1チーム3人で16カ国、48選手が世界から集まった。
米国は、フレッド・カプルス、トム・カイト、カーティス・ストレンジ。ジンバブエから、ニック・プライス、マーク・マクナルティ、トニー・ジョンストン。もちろん、日本からも水巻善典、芹沢信雄、丸山智弘が参加した。ほかにも、ドイツからベルンハルト・ランガー、豪州からグレッグ・ノーマン、スペインからオラサバル……。

海岸沿いのリンクスランド(河口の海辺にできた砂丘地帯)のセントアンドルーズ、カーヌスティなどなど、大自然の風、海、砂、雨に侵食されて、一見平坦なフェアウエイに、小さなコブや窪地が無数にあるゴルフコース。とても人間が意図してデザインしえないアンジュレーションである。自然がコースをつくりあげ、その自然に身を委ねてプレーするゴルフ。それは荒れ狂う航海にでかけるようなものだ、と誰かが書いていた。

セントアンドルーズ・オールドコースは、1547年からゴルフコースとして使われている。原型の設計者は、マザー・ネイチャー。つまり自然が生み出した、つくり人知らずのコースだった。その後、1754年に、アラン・ロバートソンがその原型を生かした初めての改造をした。さらにジェームス・ブレイド(ロイヤル・マッセルバラも設計)が改造している。
14世紀にはわずか5ホールしかなかった。やがて7ホール、12ホール、最後は22ホールで、18ホールになったのは、1764年である。ダブルグリーン(日本にあるツー・グリーンとは違う)で、1、9、17、18番だけが共有していない。

荒らぶるリンクス。
1日の中にも四季があるといわれるほど、天候はよく変わる。なるほどと思ったのは、大会2日目だった。あちこちのグリーン上で信じられない光景を目にした。グリーンに落ちたボールが、パッティングをするときに、30センチ以上も動いてしまうのだ。強風のためだ。この日、暴風波浪注意報が出された。雨はない。風だ。それも風速25〜30メートル。瞬間で40メートルに達するという予報だった。まさか。でもその予報はかなり正しかった。
プライスのボールが、1メートル風で流された。当然、ドライバーやアイアンの飛距離はアゲンストとフォローでは、極端に違う。

このダンヒル・カップは、ラウンドロビン方式で、4チームが1グループとなって総当たりし、マッチプレーのポイントをいちばん稼いだ国が、準決勝に進出できる。
僕は、ふとツームストーンを思い浮かべてしまった。
スコットランドの荒ぶったリンクスコースの風景には、ツームストーンというゲームが、よく似合うし、ダンヒル・カップそのものも、ツームストーンと同じで敗者の物悲しさがある。 
そして僕は、この大会が季節はずれの風景に、ぴったりだと思った。7月の全英オープンの季節は、つまり《お祭り》である。世界中からギャラリーが集まり、聖地巡礼のツアーを組む。
つまり、僕たちが見せられているのは、絵葉書のようなものなのだ。
けれども、季節はずれに集まるギャラリーは、物静かにゴルフを楽しむ人がほどよくて、浮足立っていない。
セントアンドルーズの街も、本来の学生街を保っている。スコットランド最古のセントアンドルーズ大学は、街そのものの中に学部の建物が点在している。ゴルフコースは、その外れのリンクスランドにある。その街の存在感がしっかり伝わってくるし、同じ空気を共有している実感がある。

きっとスコットランドのゴルフの季節は、秋から晩秋にかけて、ダンヒル・カップの時季かもしれない。
そう思うと僕は、ゴルフ発祥の地であるセントアンドルーズとスコットランドで、改めてゴルフの原風景を見たような気がした。
セントアンドルーズのオールドコースホテル脇にあるパブで知り合ったアイルランド人が「今度はアイルランドを旅するといい。スコットランドより、もっと美しいから」といってビールを御馳走してくれた。
++©Shoho Mitamura++