デビッド・マクレイ・キッド 2003 月刊ゴルフダイジェスト10月号掲載
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セントアンドリュースのオールドコース脇の道を通って、
なだらかな坂道を登って行く。
その道すがら街が広がり、登りきるとセントアンドリュース大学がある。
街の中心地だ。
そしていまはほんのわずかな側面だけを遺している大聖堂の手前から道を曲がり、女子学生たちが、日曜日に紅いマントをまとい読書しながら行き来する伝統をいまも踏襲している桟橋がある。
さらに進むと100台ほどのキャンピングカーが常駐している広場があって、セントアンドリュースの街からは、だいたいその先は風景に溶けてしまっていている。
その風景を進んで、海側に曲がると、あたり一面が菜の花畑の広大な土地が視覚いっぱいに広がる。オールドコースから5〜7分も走っただろうか。
「ここにセントアンドリュースの7番目のコースができる予定なんですよ。僕の構想では、クラブハウスをやや高台にして、そこから練習場がここで、その奥に1番ホール……だいたい18番ホールが、このあたり……」
そう言って一気に喋りまくったのは、デビッド・マクレイ・キッドという35歳の天才コース設計家である。
「いまのセントアンドリュースのコースより、敷地面積が1・5倍ほどあるんです。全長も7800ヤードぐらいを予定しているんです。この長さなら、後世に遺しても恥ずかしくない距離だし、この地形もリンクスに相応しいものでしょう?」
昨年12月の中ごろに、セントアンドリュースが新しいコースを増設し、その設計をデビッド・マクレイ・キッドという人物に任したというニュースが舞い込んできた。それ以上の情報は皆無だった。
でも彼の名前は、どこかで聞いたことがあった。それは、オレゴン州にあるバンドンデューンズというリンクスコースが、新設コースのベスト100で、トップ10以内に入ったときだ。
「バンドンデューンズの話は、僕が24歳のときにあったんです。世界中の名設計家の人たちがプレゼンテーションしていたので、まさか僕に決まるとは思っていませんでした」
コースが完成したのは、その2年後だった。
彼は、それまでに3コース。
その後に4コースを設計して、セントアンドリュース7番目のコースの設計依頼を受けたのである。
「いまの僕の構想は、18ホール中7ホールは、この岸壁沿いに連なってつくる予定なんです。ちょうどここから対岸にはカーヌスティが見え、ほら、左側の湾に沿って、セントアンドリュース城、そしてオールドコースという眺望になるんですよ。僕の構想の圧巻は、なんといっても最後の3ホールなんです。まだ誰にも構想をしっかり明かしていないけれど(笑い)」
彼は、そう言って紙にペンでラフスケッチを書きだした。

イギリスの最南端サンドイッチから、ちょうど縦断するように北上しエジンバラまで車で走らせた。
ロンドン、バーミンガム、マンチェスター、グラスゴーと大きな都市の脇を縫って走っていくと、およそ11時間半かってエジンバラの空港近くのホテルに到着した。昼過ぎにでた僕たちは、真夜中になってスコットランドの肌寒い空気に触れた。
今年は異常気象で連日30度を越える暑さ。
全英オープンと全米オープンが逆になったようだった。
6月、シカゴの全米オープンが14〜24度とやや肌寒かったからだ。
だからスコットランド特有の夏の肌が引き締まる冷気が懐かしく思えた。
明日は、セントアンドリュースにいく。
ようやくデビッド・マクレイ・キッドに逢えるという楽しさが疲れを癒してくれた。
彼の名前を知ったのは、はやりバンドンデューンズを設計し、米ゴルフ詩『ゴルフウイーク』の「1960〜2001年設立のリゾートコース」と『1999年トップパブリック』で1位になり、2001年には『プレー可能な全米コース100』で4位となったからだ。
そして驚いたのは、彼がバンドンデューンズを設計し終えたのが26歳という若さだったからだ。
セントアンドリュースのクラブハウスに約束の時間よりも少し遅れて着いた。車を降りると、彼から声がかかった。クラブハウスの駐車場近くで待っていてくれたのだ。
イメージよりも童顔で、礼儀正しく、むしろ穏やかな口調……この彼に、いったいどんな才能とポテンシャルが秘めているのだろうと思った。
けれども、取材し始めると、ひとつの質問にたいして話が止まらない。
「バンドンデューンズのオーナーのマイク・カイザー氏は、再生紙でグリーティングカードをつくる仕事が大成功し巨万の富をえた人物なんです。彼は、スコットランドやアイルランドのリンクスコースにはまって、全米の沿岸地帯を2年間かけて自家用機で探し回ったんです。リンクスに相応しい地形がないかどうかって。それでようやく見つかったのが、このバンドンデューンズの土地なんです。
僕が始めてカイザー氏に逢ったのは1994年だったんです。
ちょうど25歳になる前のことです。
もちろん、世界中の名設計家が名乗りをあげていました。僕は、あるツテで逢いに行ったんですが、当然、依頼されないと思っていました(笑い)。ですから僕の思いのたけをすべて話して、帰ったんです。そしたら数週間後に、もっと詳しく聞きたいということで最終的に僕に決まったんですよ」
リンクスならば、プレーもセルフ。
もちろんカートはなく手引き。
それが条件でプレーしなければいけない。
そしてコース造りになれた建設関係者を雇わない。
地元の工事人、会社を雇う。ブルトーザーも入れない……などなどを条件に出した。しかも完成まで、およそ2年間、彼が住み着いて専従するという条件だった。
「設計図もなかったんです。僕は正式にいえば図面に設計図を描いていませんでした。その土地に立ち、その場所を眺め、構図を考えて、そこからまさに手作りで、1ホールずつつくっていったんです。本来、リンクスコースというのは、自然環境とどれだけ溶け合うか、そして自然環境が、どれほどコースに影響を及ぼすかだと思っていますから、既成概念や常識にこだわりたくなかったんですよ。確かに、工事もコース造りになれた人なら便利です。そういう専門家のよさもあるけれど、それじゃあ、既成概念からはみ出せない。それに、一般的には、こうだと口を挟みます。リンクスは、一般的なのもじゃないよさがあるんです」
彼は、言う。
「確かに、いまでは古典になっているコースも、その時々では、常識を逸脱する輝きというのがあったと思うんです。トム・モリス、ハリー・コルト、ドナルド・ロス、マッケンジー……彼らは、その時代に驚嘆されるコースを生み出しました。だから歴史に遺るんです。ピート・ダイも好きな設計家の一人ですが、彼も型破りだったでしょう。僕は僕の方法で型を破りたい」
ヌーベルバーグ、アール・ヌーボー。つまり新しい波を彼は起こそうとしている。でも面白いのは、彼がスコットランドで生まれ、リンクスで育ったDNAである。
彼の父親ジミー・キッドは、グレンイーグルスのグリーンキーパーでありコース責任者だった。いまでは世界的に有名なキーパーである。幼いころから遊びはコースだったし、周囲の人たちもコースを管理する人が多かった。

「小さいころはゴルフもしたけれど、あんまり好きじゃなかったんです。なにせ僕の父が、凄く短気でいつもプレー中に癇癪を起こしていたんです。それは嫌で(笑い)プレーよりもコース管理とかグリーンについてとかに興味を持ったんですね」
リトル大学という土地科学分野で英国最大の大学に入った。そして1980年代後半になると、有名なゴルフ建設会社で働いた。学生時代が終わる前である。そこでコース設計とプロジェクトのマネージャーとなった。そのころの作品の中に、ネパールのコースもある。再び1991年、グレンイーグルスに戻った彼は、バンドンデューンズまでに4作品をてがけ、またグレンイーグルスも欧州PGAのために2ホール改造を加える手直しをして高い評価を得たのである。
彼は常識を破る、型破りな発想というけれど、それはゴルフゲームを逸脱するものではなし、突飛なものでもない。服飾の世界でいえば、アルマーニと似ている。アルマーニは、英国で修行していた経歴がある。その基礎があってのデザインなのだ。デビッドも同じだ。もって生まれたDNAはスコットランドのリンクスなのである。その基礎から自由な発想を駆使して設計する。
1999年8月。
デビッドは自ら父親とともにDMKゴルフデザイン株式会社を設立し、バンドンデューンズのあとに、英国のウエントワースの地域に、クイーンズウッズというコースを設計。さらにハワイ島にナニーア・ゴルフクラブを設計した。
「実は、ふたつとも超プライベートコースなんです。特に、ナニーアは、オーガスタ、サイプレスポイントに匹敵する超超プライベートです。オーナーのひとりは、投資会社で超一流のチャールズ・シュワッブとジョージ・ロバーツです」
彼は、かならずプロジェクトが決まると、その土地に住み着くという手段をとっているのだ。基本は、てづくり。もちろん機械も入れるが、いわば立体裁断のように、イメージが広がれば、その場でデザイン変更していくというから、住みつかない限り彼の理想的なコース造りができない。
「それに、自然がわからないでしょう。たとえばバンドンデューンズの時もそうでしたが、スコットランドとオレゴンでは海岸の天候も違います。温度もね。オレゴンのほうが遥かに暖かいし、湿度もあるし、風の強さも違います。すると生息する芝も雑草も違うし、プレーする人の服装も違う。雑草の違いは直接プレーする人に跳ね返ってきますからね」
またハワイ島のコースは、溶岩石に衝撃を覚えたという。
彼がそこでどんな手法を取り入れたのか実に興味ある。
「オーナーは、まずコースを歩いてプレーできること。そして、ひと夏を限りでやってくるリゾートでなく、そのゴルファーの能力をたっぷり堪能させるようなコース。もちろん戦略的にも優れていなければいけません。すべてが完成するのは、もうすぐですよ。いいコースに仕上がりました」
セントアンドリュースの7番目のコース設計家として任命されたとき、彼は「これで世界中の多くのゴルファーたちに、見てもらえるコースがつくれる」と思ったという。超・超プライベートならそうはいかない。でも、僕は思うのだ。
歴史の文化は、大金持ちのパトロンがいて若き天才を育てると。モーツアルトのように……。彼は、そういう機会に恵まれて育った。そして聖地セントアンドリュースに彼の作品が刻まれようとしている。
「今日……僕は始めてR&Aの建物の裏にあるゴルフミュージアムに入ったんです。そこにハリー・コルト、マッケンジー……錚々たる歴史上の人物の名前があった。その後に、僕の名前が刻まれると思うと、思わず武者震いしてしまったんです」
きっとプレーする人間も、彼の造ったセントアンドリュース7番目のコースをみたとたんに武者震いするに違いない。
©三田村昌鳳
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