Shoho's Notes

 日本ゴルフ100年のルーツ……@


神戸・六甲山上にゴルフコースが生まれたのは、1901年のことである。
これが日本ゴルフの夜明けである。
といっても最初は4ホール。
ゴルフ史家だった攝津茂和氏によると「イギリス人が3人集まればゴルフコースができる。アメリカと日本に作られた最初のゴルフコースがまったくこの言葉どおりであるのが面白い」と語っている。

確かに、アメリカは1888年、ニューヨーク郊外につくられた100ヤードほどのホールが最初だった。それより遅れること13年。英国人のアーサー・グルームが自分の別荘があった六甲山上に4ホールのコースをつくって仲間たちとゴルフを楽しんだのが、日本ゴルフの起源である。

それから100年という歳月が過ぎて、日本のゴルフは大きく様変わりしている。けれども日本のゴルフ100年の歴史を紐解いてみると、そこには明らかに日本で生まれ育ったゴルフ文化の足跡がしっかりと残っている。
4ホールの六甲ゴルフ。
それはやがて9ホールになり、1903年には、日本で初めての倶楽部が誕生した。神戸ゴルフ倶楽部である。ところが冬の季節になるとコースはクローズを余儀なくさせられることから、現在の神戸市東灘区魚崎町横屋に6ホールのコースを建設したのが、日本の2番目のコースになる。「横屋ゴルフ・アソシエーション」で全長1196ヤード、パー21。このコースはやがて鳴尾コースとなる。その横屋でキャディをしていた少年・福井覚治が後に日本人プロゴルファー第1号ということになる。

足早にゴルフコースの歴史を辿ると、1906年には横浜・根岸にゴルフコースが誕生した。
ここは「ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション」(NRCGA)と呼ばれ、競馬場の中央の土地に9ホール、2473ヤード、パー34の根岸のコースは、サンド(砂)グリーンでなく日本初の芝草グリーンだった。しかし、これらコースの主役は、ほとんどが外国人ゴルファーである。

その意味では、日本初のパブリックコースとして誕生した雲仙ゴルフ場は、特筆すべきである。雲仙ゴルフ場は、最初から県営のパブリックコースである。当時の知事が長崎県の観光開発の一環として、長崎在住の外国人や香港、上海から来日する外国人をもあてこんで計画したのである。1912年開場。現存するコースとしては神戸・六甲コースに次いで古い歴史を持っている。六甲、横屋、根岸が外国人主導型のゴルフ倶楽部であったのに対し、雲仙は、最初から県営パブリックなのである。その計画・運営主体はもちろん長崎県だったが、実際にすべてを取り仕切ったのは日英人・倉場富三郎だったといわれる。あのグラバー邸の子息である。発足当時の雲仙コースの料金は、キャディフィを含めて20銭。いまの1000〜2000円という感覚である。またこの雲仙ゴルフ場は、その周辺も含めて日本最初の国定公園に指定され、日本で記念切手となっている唯一のゴルフ場でもある。ちょうど8番ホールから雲仙を望んだ風景だ。しかし現在は切手に描かれている左手前の松は残っていない。
そして東京ゴルフ倶楽部(駒沢)が創立したのが、1913年のことである。これが日本人による日本人のためのゴルフ倶楽部の創設だった。
日本で最も古い公式競技は日本アマチュア選手権である。1907年(明治40年)六甲コースで第1回大会が開催された。以後11年間というもの優勝者、上位選手はすべて外国人選手である。ところが1918年、駒沢コースでの大会では、優勝・井上信、2位・川崎肇、3位・大谷光明と上位を日本選手が独占した。その意味では、東京ゴルフ倶楽部発足と同時に、ようやく日本のゴルフが本格的にスタートしたといえよう。

また駒沢のコースは、1922年4月19日、昭和天皇がまだ皇太子時代に英国のプリンス・オブ・ウエールズと親善競技をしたことでも有名である。昭和天皇は、新宿御苑のコース、そして皇居内にあった9ホールのコースでゴルフを楽しまれたという記録が残っている。ちょうどいまの吹上御所のあたりが1番ティ、9番グリーンだった。
こうして考えると、アメリカから遅れること13年。日本のゴルフの歴史の幕開けは、決してアメリカに大差をつけられるスタートではなかった。

                         ……ゴルフダイアリー2001
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日本人第一号のゴルファーは、いったい誰なのか。
日本ゴルフ協会の年鑑によると二人の日本人の名前が記されている。一人は、水谷淑彦。もうひとりは新井領一郎である。水谷は、1896年英国のグリニッチ海軍大学留学中にプレーしたという。また、新井領一郎は、アメリカでプレーを始めた。ともに1900年以前のことだった。
その新井は、ニューヨークで生糸の貿易商をして大成功を収めた人物だった。病気療養を兼ねてノースカロライナ州パインハーストで滞在していたときにゴルフを覚え、ニューヨークに戻ってから在住の日本人たちにさかんにゴルフの面白さを喧伝した。そのひとりに井上準之助がいた。当時、井上は日本銀行の監査役で駐在中だった。後に日本の金融界の重鎮となり、政治家となったわけだが、この井上らが中心となって生まれたのが、東京ゴルフ倶楽部駒沢コースだった。
そして公式競技としては、日本アマチュア選手権のあと、1926年に第一回日本プロゴルフ選手権が開催されて宮本留吉が優勝。その年に関西オープン選手権が始まり、プロゴルファー第一号の福井覚治が優勝。これが昭和元年のことである。
日本オープン選手権が創始したのは、その翌年のことである。程ヶ谷コースで開かれ第1回の優勝者は、アマチュアの赤星六郎だった。赤星四郎、六郎とふたりの兄弟はアメリカでゴルフを覚えた。薩摩藩の洋学者の子として生まれ四郎はペンシルバニア大学、六郎は、プリンストン大学に留学しそこでゴルフを覚えた。そればかりでなく、六郎は、大学ゴルフ部のキャプテンを務め1924年にパインハーストでの春期大学競技会で見事優勝するという腕前だった。もし赤星がそのままプロゴルファーとしてアメリカに残って戦っていたら、ひょっとしたら世界のメジャーを制覇していたかも知れない。それは当時の『スポーツイラストレーティッド』誌が、赤星を絶賛する記事からも想像できる。六郎は、日本オープン、日本アマに優勝。四郎は、日本アマ2回優勝している。赤星六郎のフィニッシュは独特で「六の膝うち」「沈むフィニッシュ」としてアメリカでもゴルフマスコミの話題となった。フィニッシュしたあとに右ヒザを地面につけるように沈むのである。
赤星はアマチュアゴルファーばかりでなく、当時のプロゴルファーにももちろん技術指導をしている。
パインハーストと日本のゴルフは、六郎以来、縁が深い。次にパインハーストで活躍したのは、近衛文隆だった。やはりプリンストン大学ゴルフ部キャプテンで、豪快な飛距離が有名だった。チームを優勝に導いたのはいうまでもない。大学から最優秀選手として表彰された。その子近衛文隆が留学途中で帰国せざるを得なくなったのは、第2次世界大戦中だった。父親の近衛文麿が首相となり急遽呼び寄せられたのである。文隆は、シベリアで無念の死を遂げるのだが、もし文隆が生きていれば戦後の日本ゴルフ史は、アメリカナイズされたかも知れない。その後、パインハーストで、宮本留吉がボビー・ジョーンズと親善マッチをして、5ドル紙幣を巻き上げ、それにボビー・ジョーンズのサインを貰った話は有名である。
日本オープン選手権をプロゴルファーが制したのは、第2回大会。浅見緑蔵だった。浅見、そして宮本留吉、安田幸吉、戸田藤一郎というプロゴルファーが活躍し、彼らは率先して海外遠征にもでかけた。また逆に、1930年には、ウォルター・ヘーゲンやジーン・サラゼン、ボビー・クルックシャンク、ビル・メルホーンという世界的名手を招いてエキジビションマッチを各地で開催している。
第2次世界大戦を挟んで、日本のゴルフは大衆化へと進んでいった。特に、1957年、日本で開催したカナダカップ(現ワールドカップ)に中村寅吉、小野光一が団体優勝、中村は個人優勝したことがゴルフブームの火つけ役となった。

©三田村昌鳳