チョイス 1990.1

裏返しの肖像

尾崎将司をスーパースターにした4人のライバルとそれぞれの時代
ゴルフ大図鑑 JUMBO OZAKI



ひとりのプロゴルファーの出現によって、時代が大きく変化してしまうことがある。その男が飛び込んできたおかげで、静まり返っていた水面に大きな波紋が起こってしまう。波紋はやがて、大きく広がって、微妙な光をつくりだして行く。《飛ばし屋》尾崎将司の出現もまた、日本のゴルフ界を大きく変化させるものが多々あった。尾崎の出現によって、飛ばすことの有利さ、不利さも目の当たりにすることが出来たし、飛距離がコース戦略、トーナメントでの戦略上、必要不可欠であるという認識を新たにしたのも、事実である。

そして、もっとも影響を受けたのは、《飛ばし屋・尾崎》を迎え入れる側にたった、ほかの選手たちではなかったか。時代を変えてしまう、築いていく選手は、常にほかの選手たちの標的になるものだ。相手はその標的を何とか射止めようと策を練り、本人はさらにまた打ち勝とうと錬磨する。お互いの技術は、手強い相手がいてこそより巧みに、したたかになっていくものである。尾崎という標的を得て、その飛ばしを武器にしたゴルフへの戦略、作戦を男とか編み出そうと知恵を絞った。その影響を受けた選手たちの戦術、戦略を見ることによって、尾崎将司のゴルフが、よりいっそう理解できるような気がする。


◎1973年 プロの意地とプライド……杉本英世

「なんだ、フォロー風で打ってあれだけなの?」
と尾崎が、余裕のある口調で言った。
その通りだった。
杉本は、少しでも飛距離を稼ごうと、風がフォローになるのを待って打ったのだ。それを大声で尾崎は揶揄ったのだ。
1970年。
尾崎がプロ入りした年の関東プロ選手権でのことだった。
場所は南軽井沢である。
ここで初めてオフィシャルにドライビング・コンテストの計測が行われた。
記録が正しければ、杉本は312ヤード飛ばしていた。
ギャラリーから溜息が出た。
杉本は、この新人に対して、ともかく鼻っ面をへし折らなくてはいけない、という気持ちがあった。そういう一打だった。ショットも飛距離も、まずまずだった。ところが尾崎は、それを見てニヤッと笑って、杉本に聞こえるように言ったのだ。

尾崎の打つ番が回ってきた。
こともあろうに尾崎は、逆にアゲンスト風を待つようにして打った。
ボールは一瞬消えた。
見失ったという表現より、やはり、消えたという言葉しか当てはまらない。
音だけが鋭く耳に残った。そして遥か上空に舞い上がり、杉本の落下地点をさらに越えて、ようやく地面に落ちた。
計測は、342ヤードだった。
杉本英世、河野高明、そして安田春雄の三人をさして『和製ビッグスリー』といわれていた時代がある。
1960年代後半が、そのピークだった。
それはちょうどアメリカでジャック・ニクラス、アーノルド・パーマー、ゲーリー・プレーヤーを指して《ビッグスリー》と呼ばれていたのを、そのまま借用した惹句だった。つまり世間は、彼ら日本ゴルフ界の三人にそれだけの期待感を抱いていたのである。

杉本は巨体だった。
ニクラスのデビュー当時と同じように、風や雨や、さしたるプレッシャーにも動じない風体だったし、当時としては日本でも屈指の飛ばし屋だった。1964年に日本オープンに優勝して以来、一躍脚光を浴びていた。アジア・サーキット、そして米ツアーにも何度か遠征して、ダウンブローをものにしていた。そのパワフルなゴルフは、それまでの日本のゴルフ回には見られない存在で、きっと杉本が、その後においても一時代のリーダーシップを握るだろうと見られていた。
そこに尾崎将司という新人が現れたのである。
時代背景でいえば、ちょうどこの『和製ビッグスリー』に立ち向かうようなかたちのデビューになった。プロ野球から転向してきた尾崎は、まず自分と先輩の体力を見比べても誰よりも勝っていたし、気迫もあった。
「この人たちに、負けるはずがない!」
その信念は、かなり強烈だったという。
加えて、飛距離である。
ともかく飛ばす。
並の飛びではない。
粗削りだが、そのとてつもない飛距離に、周囲たちはただあんぐりと口を開けるだけだった。アイアン・ショットは、インパクトの時に地響きを感じる迫力があった。
「あいつはいつか天下を獲るに違いない。もし自分と優勝争いをする事になったら、何がなんでもヤッツケてやろう。あいつに勝たせたらえらいことになる」
それまで日本オープンを二度も制してきた杉本英世は、尾崎将司という新人プロゴルファーをはじめて目撃して、そう決心したという。いや決心というよりも、動物的嗅覚によって、この男をいい気にさせたら取り返しのつかないことになる、と嗅ぎわけたといってもいい。
確かに杉本の嗅覚は、鋭く正確だったといえよう。
そして、はやくも確信せざるを得ないシーンに出会うことになる。
その翌年のことだった。
九州・宮崎のフェニックスで行われた日本プロ選手権は、その杉本と尾崎の優勝争いになった。そこで尾崎は、プロ入り初優勝をすることになる。
杉本は「一生の不覚」だったという。
勝たせてはいけない人間に、勝たせてしまったという悔いが残った。
もう少し優勝を先に延ばしておかなければいけない人間だった。
そうでなければ、ますます勢いに乗って、取り返しのつかないことになると察知していたのである。実際、杉本の勘は見事に的中した。

その三年後。
尾崎は、杉本英世というプロゴルファーの凄まじいプライドを経験することになる。
まだトム・ワトソンが、一勝もできない駆け出しの時代だった。
そして『ヤング・ライオンズ』と呼ばれる若手ホープの最後の一人として初来日したときだった。愛鷹シックスハンドレッドで行われ第一回サントリー・オープンでのことだ。 
このときも、尾崎と杉本の優勝争いが繰り広げられた。
ここで再び、尾崎に敗れることになったら、杉本は屈辱的な敗北を認め、きっと自分自身の選手生命をより短くしてしまうと思ったのかもしれない。
最後はなりふり構わず、ひたすら「尾崎に負けてたまるか」というゴルフであった。
17番ホール。403ヤード、パー4。
尾崎は第一打を左のラフに入れた。
右サイドにOBがある。
杉本は、左からフェードをかけて攻めていく計算だった。
しかし、気迫だけが先にたって、ティショットをミスした。
70ヤードも飛んだだろうか。
いわゆるチョロである。
杉本の第二打は、ちょうど尾崎の第一打地点とほぼ同じ距離に落ちた。三打でようやくピン7メートルに乗った。
尾崎は8メートルに2オンしている。
杉本はその7メートルのパーパットを、一発で沈めた。
外側からみれば、杉本はよれよれの優勝だった。
このなりふり構わずの死守は、尾崎の出現まで飛ばし屋であって、なおかつトッププレーヤーとしてリードしてきた杉本の意地、プライドだったのだろう。
それを誰よりも強く感じたのは尾崎自身にほかならない。
ぎりぎりのところで戦う選手がいかに強いものか。
そしていま、尾崎は15年前の杉本へと近づきつつある。


◎1976年 飛ばしに競り勝つ四つの要素……村上隆


飛ばし屋に競り勝つ方法はあるのか。
飛距離でコンプレックスを持つ、あるいはつい持ってしまい、それをハンディと考えたときに、知恵が働く。
村上隆のケースがまさに、そうであった。
村上は、通常尾崎に50ヤード〜60ヤード置いていかれることがしばしばあった。それは村上の常識を超えていた。
「その頃、尾崎と村上と私が三人でやると三すくみになったから面白い。村上は尾崎に弱いところがあった。二人が競り合うと村上のほうが負けていた。尾崎は、私にちょっと分が悪い成績を残していた。しかし、私は村上に弱いところがあった。この原因はおぼろげながらわかっている。やはり相手を気にしているからだ」
青木はその著書『わがゴルフ人生』のなかで、そう語っている。
この言葉を単に「相手を気にしているから」というのではなく、別の角度からとらえられないだろうか。

村上隆を成績で判断すると、そのピークは1975年である。
日本プロマッチプレー選手権、日本オープン、日本プロゴルフ選手権、そして日本シリーズをすべて勝ちとった年である。もちろん尾崎、青木を抜いて賞金王となった。その前後の年が、2位である。
それまでをみると、11勝しているが、いわゆるビッグ・タイトルはない。
初めて賞金ランクのベスト10に入ったのが1973年のことだが、そのときも優勝は、長野県オープンと全日本ダブルスの2勝だけである。
その翌年、1974年になって中日クラウンズに勝つなどして、賞金ランキング2位となったのだ。
その変化は、ジャンボ尾崎の影響にほかならなかった。
飛距離でこれだけ差がついても勝つ方法はあるだろうか。
その分析からはじめた。飛ばし屋の長所と短所も分析した。
たとえば、当時の尾崎のスコアカードを見ると、パーをとったホールがほとんどない。各ホールに記入されているのが、イーグル、バーディ、ボギー、ダブルボギー、果てはトリプルボギーという数字で埋まっていることは、めずらしくなかった。
いまのシステムのようにバーディの数を年間で数えていったら、きっと当時も尾崎がトップだったに違いない。いまと違うのは、ボギーやダブルボギーの数である。圧倒的に多かった。

それが飛ばし屋・ジャンボ尾崎にスタイルだった。
ティショットを林の中にぶち込んでも、委細構わずのゴルフだった。
従ってリカバリーショットもうまかった。
そういうハプニング的なゴルフだった。
それでいいじゃないか、すべてを呑み込んで、なおかつスコアメイクができたのも事実である。
「飛ばし屋がボールを曲げてしまうのは、ひとつの宿命」
という意識が、尾崎にはあった。
次弟の尾崎建夫がプロ入りして間もなく、ジャンボと対談したことがある。そこで興味深いことを建夫に言っていた。「スコアメイクを気にして小さくまとまるな。64を出した翌日、80を叩いてもいい。そのアップダウンが激しいほど可能性があるんだから。プロならきらりと光る冴えをいつも見せなければいけない」
また、長男の智春君が、初めてジュニア選手権の予選に行く前夜、こうも言っていた。
「いいか、OBを恐れるな。お前はドライバーでまっすぐ飛ばせる技術を持っていないんだから、逃げようなんて姑息な考えは捨てろ。OBしてこい。OBしたら、もう一度同じ目標で打ってこい。二度目には、何かヒントぐらいつかめるだろう。そして三度目もOBならば、どこが悪いか直す材料をみつけだせる」
 飛ばし屋のリスクをマイナス志向で考えずに、呑み込んで対処するというのが、その頃の尾崎のゴルフだった。だから、1イーグル、5バーディ、4ボギー、1ダブルボギーの1アンダーというものあった。

逆に村上には、それだけのスコア振幅はない。
言い換えれば、それだけ爆発力は望めなかった。
4ボギー、1ダブルボギーを叩いたら、よくて3オーバーと計算するしかなかったのである。
そこで村上が考えたのは、ゲームの組立だった。
当たり前のことではあるが、試合で冷静にその組立通りにプレーするのは、言葉ほど簡単ではない。試合の流れ、自分のゴルフのコンディション、そして首位を走る選手の位置。ライバルとの位置関係……さまざまな要素を全部呑み込んで、組立てていかなければならないのだ。
四つの要素を村上は、どんなことがあってもメリハリよく貫き通すことに決めたのだという。
『攻める』
『守る』
『避ける』
『逃げる』
この4つの要素である。
攻める、守る、避けるは誰でも理解できる。
ゲームマネジメントの基本だらだ。
最後の『逃げる』どう言うことかというと、たとえば練習ラウンドをして、70を自分のパーと設定したとしよう。そこで運良くひとつ余分にバーディがとれたら、そのひとつ分だけボギーになりやすいいやらしいホールに回すのである。思いきり逃げていくホールをつくってしまうのだ。
ボギーでいい。
つまり、村上は尾崎と競り合うために、忍耐強く、自分の技量、飛ばし屋にはしにくいゲームマネジメントを、徹頭徹尾守っていったのだった。尾崎と競り合って勝った代表的なケースが、全日空札幌オープンだった。
現在の尾崎の強さの中に、この四要素が含まれていることはいうまでもない。


1978年 両極のライバルが
構築したそれぞれのゴルフ……青木功


青木功と尾崎将司は、対極に位置するプロゴルファーだ。
その性格もゴルフのスタイルも、そしてもともとは、球筋も両極にあった。
青木はフック・ボールで飛ばし、尾崎はスライス・ボールで飛ばしていた。
対極に位置していることで、さまざまなエピソードを残すことになる。

1971年の日本プロ選手権でプロ入り初優勝した尾崎は、この年、通算5勝をあげている。ジャンボという愛称もすでに定着し、その勢いは疾風のように駆け巡った。
そういう尾崎に触発されたのが、青木功である。
プロゴルフ歴は青木のほうが六年ほど長かった。
デビューの頃、青木は《東京タワー》と仲間から呼ばれていた。
のっぽですらりとしていて、そして飛ばし屋だった。
ものすごいフック・ボールを打っていた。
しかし青木は、どちらかといえば、その日暮らし的なゴルフ生活を送っており、さしたる成績も残していなかった。当時、試合数もさほど多くなかったし、トーナメントにだけ神経を集中するよりも、もっと分散して、なにがしかの賞金が入ると、競輪や競馬、麻雀、あるいは遊興費に全部使うという生活がほとんどだった。
きっと青木を心底から挑発させるほどのライバルが、それまで見当たらなかったのだろう。尾崎の登場は、青木にとっても衝撃的だった。青木の初優勝が1971年の関東プロ選手権で、奇しくも尾崎の初優勝年度と同じからでも理解できる。

この年から尾崎は4年連続で賞金ランキングのトップに立っていた。
その翌年が、村上隆。青木功が賞金王になったのは、その後1976年からである。
青木は、持ち球であるフック・ボールが土壇場での致命傷になって、日本オープンを二度逃していた。
もっとも典型的なのは、1973年の日本オープンである。
雨の中での最終日、土壇場で極度のフック・ボールを出して池に入れ、ベン・アルダに敗れた。
フックからスライスボールへと球筋を変えたのは、この年のオフである。
いつのまにか青木は、尾崎という男に誘導されていたのかも知れない。
もともとゴルフの才能に長けていた男である。
その才能を発揮させるのに、何かが欠けていたのだろう。
その導火線に火をつけたのが、尾崎といってもいい。
フックからスライスへ、という球筋の180度の変更も、直接的にはその原因が尾崎というわけではないだろうが、尾崎のライバルとしての対抗意識から自分を磨き上げていったという意味では、大きな影響を尾崎から受けている。
青木が本当に強くなったのは、1978年からだ。それまで国内で19勝していたが、このころから勝ち方が微妙に変化していた。

いまでも思い出す出来事がある。
 この年、78年のマスターズ二日目の夜のことだ。
青木は予選落ちしていた。それでも最後の4メートルほどのパーパットを必死の形相でねじ込んだ。話はそこから始まった。
「あのパットはどうしても入れたかった。あれが入るかは入らないかで、これからの俺の一年間、いや、ゴルフ人生が変わってしまうような気がしてね。俺、今年36(歳)になるんだ。この年になって、ようやく、ゴルフは棒だけ振ってりゃいいっていうもんじゃないことが分かったんだ。そうじゃないんだ。いまの歳になって、ようやく友達の大切さや、人生ってやつや??うん、何か分かりかけてきたんだ」
一時期の青木は、ともすると自分のスタンスを忘れることがあった。
尾崎というライバルだけを意識していた時代があった。
きっと青木は、スーパースターということを勘違いしていたのだろう。
尾崎という男のスーパースターという部分の亡霊を追うように、服装や行動などまでも意識していた時期があった。が、そうやってもつまるところ、なにも得るものがなかったのだと気づいたのである。「俺は、素っ裸でプレーできるようになったんだ」と聞いたのは、その年の太平洋マスターズ(現・VISA太平洋マスターズ)のときだった。

青木が世界マッチプレー選手権に優勝したのは、この年の晩秋である。
尾崎のゴルフ・スタイルとは違うひとつの極点に、自分と自分のゴルフを明解に位置づけたのがこの頃である。
フックからスライスへ。
青木の決断は正解だった。
尾崎は、言う。
「本当は、スウィングを覚えるのに、フック打ちから入ったほうがいいんだ。僕が苦労したのは、スライスでスウィングを覚えたことなんだ。フックでスウィングを覚えて、スライスに変えていく。これがいい。なぜなら、ボールをうまくとらえるという感覚は、やっぱりフックで覚えたスウィングだと思うから」 
青木と違って尾崎は、別の悩みからスタートして、スウィングを構築していったといえる。

尾崎がスランプといわれていた時期の話である。
決して飛ばすことを捨てない、つまり第一打でも果敢にドライバーで攻めていき、OBも恐れないでスコアを乱していく尾崎に「なにもドライバーを使わなくたって……」という言葉がよく囁かれた。
尾崎は耳を貸そうとしなかった。
むしろ意固地なまでにドライバーを振って、攻めていった。
「僕が飛ばすことを捨てたら、尾崎将司でなくなってしまうじゃないか。プロゴルファーは夢を与えるのが仕事なんだから。一般の人が追いつかないほどの飛距離。これもひとつの夢。そして、青木さんのように凄いテクニックで寄せてパーを拾ったり、チップインしたり、ロングパットを沈めたり……それもひとつのスタイル。俺がそういう拾いまくるゴルフをしたってしょうがないよ」 
青木功は、ひとりいればいいということなのだ。
尾崎はあくまでも『飛ばし屋・尾崎』のイメージで、スランプ脱却を考えていた。
「仕方ないよ。俺はショットメーカーなんだから」と言った。
そして尾崎も青木も、まるで正反対の対極ゴルフであるという確認をし、自分のスタイルを確立させていたのだった。


◎1979年 
  頑固に重ねていく飛ばしの年輪……J・ニクラス


ことを性急にせず、豊饒するまでじっくりと腰を据えてひたすら待ち続けるという性格が、飛ばし屋・尾崎の一面にある。ひとつの目標に向かって直線的に進むタイプかと思うと、しっかり多角的に外堀を埋めていく一面を持っているのだ。
しかし、どの面をとってもひとつのキーワードに必ずぶつかるのだ。
もちろんそれは、『飛ばす』という言葉で集約される。
あの低迷期の時も明言していた。
「プロにしかできないものを見せなければ絶対に新しいファンはできない。僕の場合は、たとえばロングドライブでしょう。青木選手はアプローチ、パット。だから僕にとっても彼にとってもいい比較になると思う。僕は、やはり34歳でロングドライブを昔のまま維持する。それが僕の魅力のひとつだと思う。また、10年経って同じ質問されれば、同じ答をすると思うよ」

その基本は、いまでも全く変わっていない。
尾崎のゴルフの軸は『飛ばす』なのだから。
変わった部分といえば、素材だけの飛ばしのゴルフから、飛ばしを武器にして年輪を重ねたゴルフになったということだろう。

その問いかけをしたのが、ジャック・ニクラスだったのかもしれない。
尾崎が8位になったマスターズを覚えているだろうか。
1973年もう色褪せた遠い過去の話である。
でもひょっとすると、尾崎はその過去を引きずっていたからこそ、いまがあったのかも知れない。8位という順位を言っているのではない。
話は、水曜日の午後、パー・スリーコンテストが終わった後の練習場から始まる。その前年、初出場の尾崎は予選落ちし、ニクラスのプレーをギャラリーに混じって観戦していたのだ。二度目の出場だった。
尾崎が先に練習をしていた。
そこへパー・スリーを終えたニクラスがやってきた。
尾崎の後ろの打席が空いていた。
大げさに言えば、これが尾崎の悩みの始まりだったかも知れない。
ニクラスが打席に立っていよいよ打ち始めるというとき、尾崎はニクラスの使うクラブにちらりと眼をやり、同じ番手のクラブを自分のバックからとりだした。
そして、やはりニクラスを同じ位置にキャディを立たせた。
最初はきっと半分茶目っ気を出したのだろう。
球筋も真似して打った。
ニクラスのクラブの番手が変われば、尾崎も続く。
最後はドライバーだった。
ここまでは、互角の球を打っていた。
なにせ練習場である。それに尾崎も絶好調だった。

キャディが遥か先の、あとはフェンス手前にある林にぶつかるというところまでは、互角と見ていいだろう。ニクラスが、キャディに林の中へ入れと指示した。尾崎も真似た。
事態が急変した。
尾崎のキャディは、右に左にと激しく動くようになった。
そして、ニクラスのキャディは、ほぼ、指示された位置で飛んでくるボールを拾い上げていた。
より遠くに。
尾崎はその資質をたっぷり持っている。
ニクラスとの違いは、より正確に、という部分であった。
この違いは、実践のコースにでたときに、バーディとボギー、あるいはダブルボギーの差になって出てくるのである。ショット・メーカーと尾崎がよく口にする出発点がここにあったと思う。
それが26歳のときだった。

最大のテーマを与えられてしまったのかも知れない。 
ブラック・シャフトをいち早くアメリカから持ち帰って使いだしたのは、そのあとである。尾崎が道具に対して要求したことは、もっと飛ばしたい狙いよりも、道具で正確さが補われないものかという試行錯誤からといえよう。
最大のテーマ、つまり完璧な飛ばしを目指す尾崎に、ニクラスは再びヒントを与えた。
それはふたりが対談したときだ。
確か尾崎が29歳だった。
あと2カ月ほどで30歳になろうという時期だった。
何かの拍子に尾崎が
「僕はまだ若いですから」
と冗談めかして言うと、ニクラスが真剣に話し始めた。
「ジャンボ。これだけは覚えておくといいよ。私もジャンボと同じように思っていたんだ。でも30歳を迎えたら、それから体力は直角に下降していくんだ。徐々になんて思ったら、あとで大変な苦労をするよ」

いま思えば、その時に気づくべきだったという変哲もないアドバイスである。
もうひとつ、シーンを付け加えよう。
尾崎が34歳の時に、練習場でニクラスと再会した。
フロリダだった。
低迷が続く時期で、その日尾崎は、試合コースの練習場に4、5時間いたことになる。 
血相を変えてニクラスがやって来たのそのその間である。
ボールを打つ。
ひたすら打ち続けている。
近寄りがたいほどの迫力で打っている。
尾崎は、その飛球線上の後方にたってみていた。
こちらも動かない。
しばらく経って尾崎が呟いた。
「ニクラスは、腰の回転でフェード・ボールを打っているんだ。我々日本人のフェードは手で打っているんだ。だから厳密に言えば、フェードでなくスライス系のボールでしかない。ニクラスの正確さはそこにある。でも見てごらん。昔に比べてその肝心の腰の粘りが少なくなってきている」
あのニクラスでさえ、と、尾崎は半分かすれたような声で言った。

さて、このニクラスとのいくつかの出逢いによって直接的な影響を受けたかどうか解らない。しかし、その後の尾崎の言動にこれからのシーンが見え隠れしてならない。
悪い部分を矯正しバランス良く積み上げていけば、かってにいい部分は伸びていく……。つまり飛ばし屋・尾崎は、頑固に飛ばすことを軸に、根気よくスウィング、ゴルフの豊饒に心血を注いでできたのである。
©構成・三田村昌鳳