| 門司ゴルフ倶楽部 中部銀次郎の感傷旅行 | |
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"アマ界の皇帝"中部銀次郎にとって、ゴルフの故郷は四つある。門司、下関、広野、そして東京。が、日本アマ6回のタイトル・ホルダーも、今年43歳。アスリュートとしては下り坂にかかった。「自然の摂理さ――」と言いながら、五月のある日、彼がめざした故郷への旅は、少年時代の門司、下関であった――。 下関から門司へ、海峡を渡るには、その昔唐戸から20分ほど船にゆられて行くしかなかった。 最短距離で測って約800メートル。それが本州と九州の間にある関門海峡である。静かな日和りでも、潮流は激しく、水面はいつも波立っている。厳流島、壇の浦という歴史上のエピソードも、この海の底にどんよりと沈んでいるのだろう。気の遠くなる時間は、激しい潮流のように流れてしまっている。43年前に関門トンネルが開通し、汽車で本州と九州を結んだ。さらに、27年前には国道が開通したので、いまは景色を眺めながら関門橋を利用して往きかうことができる。 中部銀次郎の生家は、下関の明池山の頂き近く、その海峡と街並が見渡せる所にある。庭に立つと、晴れた日には向う岸の門司の様子まで察することができたという。 その明池山の生家から坂道を降りて700メートルほど歩くと、海峡を渡る船、唐戸の渡船場に着く。 「ちょっと着いて来い!」 父・利三郎に言われて中部銀次郎がその唐戸から、対岸の門司へ渡ったのは、小学校4年生のときだ。船にゆられて20分。さらにそこからバスにゆられて40分。バス停をおりて狭い道を再び20分ほど歩くと《門司ゴルフ倶楽部》と書かれた入り口に辿り着く。 少年が海峡を渡ってゴルフ場へ行ったのはひょんなきっかけだった。 当時、虚弱体質だった彼は、真夜中でもよく医者にかかることがあった。家人も中部少年の体を気遺って何度か医者に相談したが、これといった解決策がなかった。 「少し歩かせてみたらどうだろう?」 原始的な診断は、最後の結論だった。 ゴルフ好きでシングル・プレーヤーの父親はコースへ連れて行った彼にクラブ1本持たせで18ホールを歩かせたのである。 遊びながらボールを何度か打っていくうちに、少年は「こんなに面白い"遊び"があるのだろうか」と、すぐ、ゴルフにとり憑かれた。 1年後にハンディ22となり、小学校6年では20。中学時代にははるか年長のベテランと 互角に戦えるまでになった。 毎週、土曜と日曜の2日間。少年は海峡を渡った。 ささいなきっかけが、中部銀次郎とゴルフの出逢いだった。 「わあー。懐しいなァ。ホント。随分変わっちゃったなあ」 東京から飛行機で博多へ。新幹線で35分ほど戻って新下関へ。今の旅は、またたく間に目的地へ着いてしまう。 東京に居を構えて15年、故郷に帰って、のんびりと地に足を踏みつけながら歩くことなど滅多にない。 生家のたたずまいも少し変った。門の前でよくキャッチ・ボールをしたというその道も今は、やたら狭いスペースに感じる。 「家から小学校までが5分。裏門から入るには、108段の階段をかけ登らなきゃいけなかったんですよ。中学校がその反対側。そうそう、カドの酒屋さんに美人のお姉さんがいてね……」 生家に立ち寄ったのが10年ぶりという。そして、海峡を渡って彼のゴルフのルーツである門司ゴルフ倶楽部へ行ったのが18年ぶりであった。 最後は、西日本オープンの会場となって参加したときである。1967年のことだ。 最終日。13番ホールにやって来て、中部はプロの上田鉄広と並んで首位に立っていた。アマチュアである中部と優勝争いをするプロの心理もかなりつらかったろう。13番ミドルは、右側が池、左側に山がせり出していてティ・ショットの落し所が難しい。打ちおろして第2打はかなり打ち上げになる。 ちょうどティ・ショットの落下地点は、フェアウェイ幅が20メートルほど。ドライバーで打った上田が右の池、OB。 アマチュアがオープン戦に優勝するという快挙が、ここで起ったのである。 それが18年前だった。 生涯をアマチュアとしてプレーを続けている中部の想い出は、さらにそれより15年もさかのぼる。 昭和27年。つまり小学生だ。 ふたつの出来事があった。 父親と一緒にラウンドし始めてまもなくのことだ。6番ホール。第2打をグリーン右側の大きなマウンドに打ち込んだ彼は、その第3打のアプローチを空振り、4オン。2パットしたから"6"のはずである。 彼は、空振りが口惜しくて"5"と申告したのである。誰も見ていない――と思ったのだろう。それでなくてもまだ10歳で、とにかく1打でも少ないほうが嬉しい年頃だ。 その、ついの出来心で発した"5"という申告に、父親の利三郎は怒り声をあげた。 「そんなことをするなら、二度とゴルフなんかするな!」 しばらくの間、クラブを取りあげられてしまった。少なくとも、自分自身の中でフェアで本道のゴルフ心(スピリット)をもってゴルフにとり組もうと思ったのは、この時からだ。 以来、二度とアンフェアな行為はもちろんない。いや、むしろより厳しくあろうという態度を保持している。 「おい坊主。ちょっと時間を見て来い!」 「はい!」 クラブハウスの前に、イガグリ頭で父を待っていた中部少年に、あるメンバーがそう声をかけた。素直に、時間を告げている所に父親がやって来た。中部財閥の一族に連なる顔を見たそのメンバーは急に態度を変えてペコペコする。そんな大人の変り身は、少年にとってはショッキングであったのだ。 まだ大衆化という言葉でゴルフがくくられていない、どこかにブルジョワ的においのする時代ではあった。恵まれ過ぎる環境――、必ずその問題にぶつかって悩まされるのが、その頃の中部少年にはあった。しかし――彼は、純粋に、純粋すぎるほどゴルフとつき合って来た。 たとえば、当時の彼はかなり恥しがり屋であった。赤面症、対人恐怖症といっていい。初対面の人と目を合わせることすらできない。試合でティグラウンドを囲むギャラリーがいるだけで足が震える。ということもあった。 人混みの中、デパートへわざわざ行って階段を昇り降りする。人が来るとそれだけで降りることもできない。で、彼は、毎日ヒマができるとデパートへ行って人に慣れようと努力した。ひとの気配でプレッシャーを感じてゴルフが思うようにならなくなるのが嫌だったからである。 そんな少年時代を門司ゴルフ倶楽部で過ごし、のちに日本アマチュア選手権に6回優勝することができたのである。 生家の近くにある王江小学校は、昔のままであった。広いグラウンドに立つ。胸につける小学生の名札の形もほとんど変っていない。 行きつけの床屋も、まだあった。唐戸の渡船場に立つと、昔のままの海のにおいが伝わってくる。 「コースは、だいぶ変わっちゃったね。でもそこかしこに面影はある。あの18番ショート・ホール。フル・バックから打つと僕のドライバーでギリギリ池を越せたんですよ。 スライスに悩み苦しみ、何とかそれを治そうと必死だったんです。 そうそう。夕方近くになると、16番にあるバンカーへ行って、よく練習しました。まだニブリックでバンカー・ショットしていた頃でね、ちょうどサンド・ウェッジが日本にも売り出された時期です」 中部銀次郎には、アマチュア・ゴルファーとして、4つの故郷がある、と言われている。 第一が、この門司ゴルフ倶楽部だ。中学2年を過ぎて下関ゴルフ倶楽部に移り、甲南大学時代は、広野ゴルフ倶楽部の練習場でよく球を打った。そして、東京ゴルフ倶楽部へと移ったのである。 「やっぱり門司は、僕にとってはいちばん印象的ですね。今のようにスコアが良ければそれでいいというゴルフでなく、なにか基本的なゴルフの考え方、精神というのをそこで教わった気がします。 服装やマナーもそうですが、そんな外面的なことは、中味から出てくるわけでしょう。その中味、枝葉でなく根っこみたいなものを教わりましたよ」 1960年には、米国メリオンで行なわれた世界アマチュア選手権の代表選手に選ばれ、2年後の62年に、はじめて日本アマチュア選手権に優勝した。 生涯アマチュアでいたいという、そんな気持ちにさせたのも、この門司ゴルフ倶楽部が起源となっている。 朝早く、その門司ゴルフ倶楽部についた。コースには、まだ誰もいない。 静寂の中へ、ゴルフに出会った頃の少年の時代へ、43歳の中部は、まるでコースの芝の中に溶けてしまうように、スーッと歩き出した――。 |
| 構成・三田村昌鳳 |