ボビー・ジョーンズと中部銀次郎
index 雑誌「エスクワイア」の創刊号、1930年代前半だったと思うけれど、そこでボビー・ジョーンズの独占手記を掲載していた。

1930年。アメリカが世界大恐慌に陥った翌年のことだが、アマチュア・ゴルファーのボビー・ジョーンズが、全米オープン、全英オープン、全米、そして全英アマチュア選手権の4つのメジャー・タイトルを1年間ですべて獲得してしまうという快挙をやってのけた。ジョーンズが、28歳のときである。そして彼は、この年間グランドスラムを達成して、アマチュアのまま競技生活から引退してしまったのである。彼の天賦の才は、全米オープン4回、全英オープン3回、全米アマ5回、全英アマ1回、通算でメジャー・タイトルを13勝もしていることを見ても空前絶後の偉業だったことが解るだろう。

競技生活から退いた直後に発表された独占手記(原題「Preparing for Competitive Golf」)の中で彼は、選手生活の間に「大事なゲームの前に、いちばん重要視することは何ですか?」と何度となく、同じ質問される度に困惑を隠せなかったと言っている。

そして、こう答えている。

「かたちはどうであれ、これは私自身の競技生活の中でも、いつも自問自答を繰り返している疑問だった。何かある……大事なトーナメントに向けて、自分のゴルフをベストに仕上げていく《最良の方法》が、きっとあるに違いない。そう思っていた。けれども、そんな秘策なんて簡単に見つけ出せるものではない」とその手記の中に書いてあった。

そして、あるとすればたったひとつ「あまりゴルフに根をつめるな」ということぐらいだろうと言い「結局、私はその結論に辿り着くしかなかった」と言うのである。

そして彼は「ゴルフのストローク(ショット)は、高純度の精神コントロールと肉体(筋肉)が、うまく溶け込むことによって成立する。もっとも肉体は日頃の鍛練、繰り返しスウィングの練習をするということが行き届いていれば、とりたてて問題にすることはない」と言って、「問題は精神面」なのだと力説する。

 僕は、この手記を読んだときに、ふと中部銀次郎さんのことを思い浮かべた。

 中部さんは、日本アマ6回の最多優勝記録のほか、全日本学生、関西アマ、関東アマ、アジアアマ、日本オープンベストアマなど、アマチュアとして取り得る全てのタイトルを持っていた。そして1960年世界アマチュア選手権では、ボビー・ジョーンズと出逢っている。

「100が切れないんですよね。どうしたら上手くなりますかね」

と、もう25年以上前に言ったとき、中部さんの答えは、たったひとこと、「心の持ちようだけだよ」と言切った。

「いや、僕は下手なんですよ。うまく当たらないし、スイングも全然よくないし……」という僕の言い訳は通用しなかった。

「それは大きな勘違いなんだよ。100が切れないというレベルでは、技術は関係ない。心の問題しかない。ちなみに、ボールが林の中に入ってしまったとしよう。そのときに、確実にフェアウエイに出せるかどうか……。例え、安全な場所がグリーン方向や横になくても、後ろにあっても、18ホール、林に入ったらフェアウエイに確実に出すという気持ちが持続できるかどうか。これができれば、100は切れます」

 中部さんは、そうアドバイスした。要するに自分の実力以上でも以下でもない自分自身でプレーできればいい。見栄もいらない。

 僕が中部さんから聞いた話の中で、こういうやりとりがあった。



……その日ホール・アウトするなり、「今日のショットは、本当によかったなあ」と言ってハウスに入って来たとする。でも、果たして本当に良かったのだろうか。という疑問は、たくさん残っている。 「ショットが良かった」という内容が、どういうものであるのだろう。往々にして、スコアが良かったから、そして、大きなミスが出なかったから、ショットがいいという。良いスコアが出たときは、みんな、このひと言で片付けてしまうのだ。この際、少しぐらいのミスは、みんな帳消しになってしまう。

でもこれが逆に「今日は、ショットがメロメロだ」というときは、ダブル・ボギーとかトリプル・ボギーを叩いたとき(ただの1ホールであっても)であろう。つまり、自分が許容できるスコアの間をウロチョロしている間は、絶対にショットがどうか、などということは考えてもいないのである。ところが、たった1回のOBやミス・ショットがでても「今日は1日ドライバーが悪かった」という錯覚に陥りやすいのである。

スコアがいいんだから、ショットがいいに決まっているじゃないか、と言う人がいるかも知れないが、これは、大きな間違いである。いや、この大きな間違いを、自分の中でしっかりと自覚すべきである。ショットがいいからと言って、スコアに全部結びつくとは、限らないのである。

では――。

あなたは一体、ショットなるものが、どれぐらいの確率で正しく飛んで行くか考えたことがありますか。おそらく誰でも平均して15〜20パーセントぐらいの確率しかその正確さはないのである。例にとってみれば、18ホール中、14ホール、ティショットでドライバーを使うが、その14ホール中の20パーセントとして、3ホール弱しか、自分の狙ったところに飛ばないと思う。ところが、20パーセントの成功度しかなくても、自分の許容スコアで納まってくれれば、何の苦にもならずに「ショットは、良かった」ということになってしまうのである。それでも、20パーセントじゃ不満だ、その正確度を50パーセントに……高めたいと思うとなると、いったいどれだけの練習量が必要なのか。とてつもない訓練をしてもどうかというくらい大変である。練習するなとは言わないが、ナンセンスである。いや、言い過ぎかも知れないが、その前に考えなくてはならないことがある。

つまり――。

「ショットとスコア」が同一であると思っているところに間違いがあり、これを意識の中で調節することのほうが、大訓練よりも楽で、大切なことではないだろうか……。



 中部さんは、「意識の中で調節する大切さ」を説いた。それが心の持ちようだ。

 ボビー・ジョーンズは「精神的動揺が、肉体(筋肉)にどれほど影響を及ぼすか計り知れないものがある。たとえば、こんな経験をしたことはないだろうか。ショットするときに、バンカーが視野にちらついて気になるのと、そうでない場合とのショットの成否、また、ロングパットで、一瞬入りそうだと思うときと、入らないかも知れないと不安がよぎる場合との結果の違い。それはドライバーも同じだ。意識的に狙う方向を絞って打つショットと、ともかくフェアウエイに落としておこうとさらりと打つ、その違いについて、きっと後者のほうがまっすぐ飛ぶはずだ」と。そして「いうまでもなく、ストローク(ショット)を意識的にコントロールしようとする努力は、かえって悲惨な結果を生むことになる。プレーヤーが打ち方について矯正したり変えたりしていいのは、練習の場のみである……それが私の持論だ。1番ティーグラウンドをスタートしたら、すべての技量はその結果に集中すべきである。正直言って、私が最高のプレーをしているときは、ボールの前に立ってスタンスをとった瞬間、すべての精神的迷いは払拭している。もうそのときは、クラブ選択もどこに打つかもいちいち意識することはない。ごく自然にスタンスがとれているのだ。あとはもう馴染んだ筋肉の動きでスウィングするだけだ。習慣、潜在意識のコントロールとでも言おうか。自分の中にいるもうひとりの自分が、あなたが許可さえすれば、あなたのために打ってくれる。私は、ベストプレーは、そうして生まれると確信しているのだ。ただ、優柔不断、あるいは結果に対して不安を抱いたり、緊張しすぎると、この働きを妨げてしまい、ミスショットが生まれる」

 そして、「根をつめるな」ということは、単に練習だけを指摘しているのでない。たとえば、アイアンショットがうまくいかない、パットがうまく入ってくれない、と夜通し悩んでしまう状態も含んでいるのだという。

 中部さんの話を、また続けよう。

「いい例が、練習場に行くでしょう。パターを除いて、13本のクラブを練習する。で、1本のクラブにつき10発。狙いを定めて打ったとする。10発中何発が狙い通りに落ちるか。その13倍で130発。その何パーセントが狙った所、同じ所に打って行けるのだろうか。10〜20パーセントぐらいでは?

つまり、それだけ確率の低いゴルフを実際にやっているにもかかわらず、本人は、なんと100パーセントの確率で打てるような意識でプレーをしてしまい、それが、何となくケガの少ない所でいるうちはいいのだが、OBやソケット、ダフリ、チョロ、トップなど出はじめると急に起きたことのようにビックリしてしまって、乱れてしまうのである。

スコアを形成するのが、ひとつひとつのショットではあるが、そのひとつのショットを、自分が放つショットを信頼しすぎてもいけないのである。信頼してもいいが、常に裏切りがあるという認識も必要なのだ。そして、裏切られても、そのワンショットで全部スコアをメチャメチャにされることはないのである。1ショットは、たったの1ストロークでしかない。

パーオンするホールというのが18ホール中どのくらいあるか考えてみればわかる。パー4のホールなら、2オン2パット。パー5なら3オン2パット……。こんなにかっこ良くいかないのが常である。それでもパーはとれる。ボギー・ペースなら尚更である。ところが、かっこよく行かないとなかなかみんな納得しない。それが間違いだ」

 つまり根を詰めるのは、練習場でいいし、100パーセントを望むという見栄や根の詰め方は、コース上、ゲームには必要ないということなのである。かといっていい加減なプレーをするわけではない。中部さんは、ゲームでは「ショックの吸収力を高めろ」とアドバイスしている。

「いや、ハーフでね。残り3ホール、例えばボギーペースで回ったら50が切れるとか、この最後のホールでうまく行けば……。なんて思うでしょう。すると必ずと言っていいほど、崩れてしまうんですよね」

 これが我々アマチュアの弁解である。

 中部さんは、こう言う。

「これは不思議なもので、誰でも経験がある。高いレベルで考えても同じことだ。優勝を目前にして、急に、あれよという間に崩れ落ちてしまう。これは、自分が窮屈になってしまうからである。いや、窮屈にしてしまうのである。ここをパーで切り抜けたら……と思って、ティグランドに立つ。よしとにかく安全に、安全に……と守りのゴルフをする。すると、ティグランドで目につくのは何だろう。左右のOBや林、風、ナイス・ショットへの期待……そこから始まって考えて、ここへ落としては行けない、すると落とし所はここしかない……果たしてそういうときに限って、その落としてはいけない所に落ちたり、OBが出たりという結果をもたらすのが常だ。

数を気にしなければいいスコアが出ることもある。だが、この場合、そこまで自分を窮屈にしてしまうと、そのほとんどが悪い結果をもたらすのである。言ってみれば、悪いスコアは、その窮屈に対する反作用と言えるのである。この《窮屈》な気持ちというのは、1回や2回では克服できるものではない。では、その窮屈に対して、どう処理すればいいのか。これは、ほとんどが精神的作用である。そしてたった1ショットの結果だけで判断しないで、このときこそ球打ちでなくスコアの形成を考えるべきなのである」



ボビー・ジョーンズが《オールドマン・パー》を発見したのは、競技生活で苦しんだ挙句だった。

名著『ダウン・ザ・フェアウエイ』(小池書院・菊谷匡祐訳)の中で、こう書いている。

「……ゴルフは、誰かに対してプレーするものではなく、何かに対してするものであるということに気づかなかったら、わたしはメジャー選手権に勝つことなどなかったろう。そういっても決して間違いではないと思う。何かというのはパーのことだが……そのことを学ぶまでには長い時間がかかって、ずいぶん悩んだものだ。

……思うに、これが目に見えない敵、スコア・カードと鉛筆とで表される、何か形のないものを相手にプレーした最初であった。いかなる敵よりも手強い相手――オールドマン・パーである……」

このオールドマン・パーという言葉を、ときおり消極的で、極めてアマチュア・レベルのものだと思い込んでいるプロゴルファーがいる。いまはバーディ合戦でパープレーなんかでは勝てない、と。

僕は、異論がある。言葉尻りだけで、その真意を学び取ってないのではないかと思うからだ。

2002年のマスターズや全米オープンで見せたタイガー・ウッズのゴルフが、まさしく《オールドマン・パー》の精神だった。

昨年の全米オープンを振り返ると、ウッズと最後まで優勝争いをし打倒ウッズに燃えたミケルソンや4位のセルヒオ・ガルシアとの差はなんだったのかと思う。きっとそれはまずゴルフは「オールドマン・パーとの戦い」という球聖ボビー・ジョーンズのゴルフ哲学が、タイガーの根底に身に着いていたからだと思う。

ともすればバーディ合戦という米ツアーのゲーム流れにとらわれてしまうと、冒険や攻めるという挑発的な本能だけが勝ってしまう。ウッズはそれを持ちながら、まるで一手、間を置くかのようにパーを基準に組み立てられる勇気と余裕があった。ショットが完璧でなくても勝てた裏には、そのボビー・ジョーンズ的発想とジャック・ニクラス的勝負の執着心があったからだと思う。

 昨年のマスターズでウッズと一緒に回った伊沢利光が、つくづくこう呟いた。

「メジャーに行くと、必ず、行っちゃいけないところがあって、でも、そこを避けながらも、バーディを取っていかなくちゃいけないことを、痛感するんです。2001年、賞金王の年は、ピンを直接狙っていくゴルフをしてきたが、そのままのゴルフを続けていけば、この先、きっと行き詰まると思った。だから、避けるところは避ける、それでもバーディを取るというような……もっと安定した逃げるゴルフを展開しつつ、なおかつバーディを取る、ということを、今年はやっていこうと思ったんですよ。その思いが、ティショットでもセカンドでも過剰になりすぎて、今年は、スイングが崩れてしまったのだと思う。タイガーの凄さは、パーのとり方が上手いことです」

振り返れば、ボビー・ジョーンズのゴルフ精神は、アメリカでしかりと継承されている。

ジャック・ニクラスもジョーンズの精神の継承者だったし、いまは、ウッズが代表しいている。

「私がゴルフを始めたのは、子供のころにサイオトGCに父親のキャディとして連れていかれてからだった。ゴルフを始めて、父は何かにつけて、ここで開催された1926年全米オープンで優勝したボビー・ジョーンズについて話してくれた。いつの間にか、私の中にそのボビー・ジョーンズが棲みついてしまった。ボビー・ジョーンズならどうするだろう。ボビー・ジョーンズに追いつき追い越すには……。ボビー・ジョーンズだったら、どう対処するだろうといつも思い描いていた」

タイガー・ウッズが、より強くなったのは、バーディをとっていくためには、まずパーありき、だというゴルフができるようになったからだ。ともすればバーディを狙うことに必死で、パーを忘れてしまう。ピンの位置が難しい左右、前後に切ってあっても、まずパーを基準に考えていき、チャンスを待つ。やがて幸運ならバーディもイーグルもとれる。いきなりバーディという猪突猛進は、勇気ではないということを悟ったからだと思えてならない。

 球聖ボビー・ジョーンズは、競技ゴルフとエンジョイゴルフは、大きな差があると言っている。名著『ダウン・ザ・フェアウエイ』の最後で、彼は、こう締めくくっている。

「……とりわけチャンピオンシップの檻にでも入った場合は、事情は一変してしまうのだ。誰しも初めは、そこに入りたいと願う。そしていったん中に入れば、そこから出たくないと思う。が、誰ひとりとしてそこに留まりつづけられるわけではない。(中略)ゴルフ――ふつうのゴルフ――はあれほどにも愉しいのに。(中略)しかし、ひとつだけはっきり見透せることがある――それは、どこかでチャンピオンシップが行われている日曜日の朝、わたしは懐かしいイースト・レイクで、父と、チックとブラッドとで何の精神的圧迫も受けずにラウンドしているだろうということである」

一方で彼は、ふつうのゴルフ、愉しみのゴルフに憧れていたのだ。

達人の領域に入ると、きっと広い視野の中で、もう一度、愉しむゴルフの素晴らしさが、いちゴルファーとして心地よいのだと悟るのだろう。

構成・三田村昌鳳