中部銀次郎

ワンちゃん、不振から脱出

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(1)

常に、これでいい。と満足したことはない。不安と一緒に歩きながらの毎日だった。不安を消すには、練習しかない。が、練習すると、余計、不安になる。

誰かが、言った。

ゴール(極限)を求めて行くというのは、自ら、孤独を追い求めて行くのと同じことである――と。

だが、そんな、かっこいい言葉ではかたずけられないほど、残酷なものだ。

つい最近、巨人軍の王選手が、ヒットが出ないで悩んでいた。23打席目でやっと出たという。あれほどの大選手でも、不調に悩むことである。そして、やっとホームランが出たとき、彼は、ホームランが出た喜びよりも、ボールが見えるようになったことを喜んでいた。そして、ボールがよく見えるようになるために、彼は、どれほどの努力をしていたか。私が言うまでもない。

「結局、練習するしかないんですよ」

手には、かなりのマメができ、それが切れている。かなり痛々しい。インタビューで、アナウンサーがその話をすると

「こんなところには普段できないんですけどね。お恥ずかしい話なんですが……」

と言っていた。

ホームランを打ったとき、ダイヤモンドを1週する王選手の顔は、やはり嬉しくて仕方がないというものではなかった。前にも聞いたが、テレくさかったのだろうか、そのときも――。

テレビを見ていて、王選手の話す、ひとことひとことが、私の胸の中にジーンと響いて来た。今まで、手袋なんかしないで済んでいた彼が、もう、バンそうこうでは、追いつかない。それほどのマメの数だったのだ。

――ひとつのものを極めるというのは、その人だけにしかわからないものがたくさんある。王選手を見れば、それがわかる。これは、どんなものでも同じなのである。ゴルフでも野球でも。川上哲治氏が「王は、もう極めている。放っておいても大丈夫」と言っていたというが、その通りなのである。

ここまで辿り着くまでの経過を見れば他人がどうこうするものではない。そして、必ず基本を守っている。ボールが見えなくなったら、練習をする。何千回とバッティング練習を重ねる。これは、全くの基本ではないのだろうか。そしてその“基本”が、つまり練習を繰り返すということだけが、自分自身を支えているのである。おそらく、ホームランを今までに726本打って来たんだという実績ではないと思う。

「最初のホームランを打ったとき、あっボールが見えるようになって来たと思ったけど、その次のヒットが打てたときにこれだったらいいと確信した」

ホームランが出るのは、たまたまなのである。本当に自分が納得が行く打ち方でヒットなりホームランなりが出たときに嬉しいのだ。王選手は、決してホームランばかりを望んでいるのではない。だからあれだけホームランが出るのだろうが……。過去の実績と言うのならば、ホームランの数やヒットの数よりも、そういうものを結びつけた“努力”ではないだろうか。それだけ、ひと一倍の練習、努力を重ねたという“実績”ではないか。だからこそ、不振のとき、その実績、つまり基本、練習、努力に戻って行くのであろう。

(2)

ゴルフでも全く同じである。

そして、もうひとつ。それは、極めて行くにつれ、ゴールが近づくにつれて、逆に自分の肉体は、衰えて来るということなのである。

例えば、元西鉄ライオンズの名ピッチャーだった稲尾さんの話。彼が、自分が最高に納得の行くボールを投げられるようになって来たのは、入団して6年目以後だったという。そして、現役を引退する頃には、自分自身の中、つまり、精神的には、最高だったという。が、何故引退したかというと、肉体が逆に衰えて来たからである。だからこそ、現役引退に未練があったと言ったのだろう。精神的には充実しているにもかかわらず、肉体が思うように行かない。

最初は、まず肉体が上位に来て、精神面が下位にある。その幅が年月が経つにつれ、極めを求めて行くにつれて、だんだん縮まって、交差して来る。いちばん優勝できる可能性を秘めているのが、その接点に達しているときだ。そして、今度は、精神面のラインが上に昇って来て肉体面が落ちて来る。ただ、ここで、安閑としていると、精神面の線は、昇ってこないのである。だから、何回か勝っても、パッと線香花火のように消えてしまうのである。

その接点からが、いちばん大切な時期になって来るのだ。そこでいかにゴールを求めて努力して行くか、そうでないかでその先が決まって来るのである。

すでに、私が言うまでもなく、王選手は、そこで決して安閑とはしていなかったのである。だからこそであろう。もちろん、このことはゴルフでもそうなのである。しかし、ここで他人が強要してもだめなのだ。いや、努力しろと、強要するべき問題ではないのである。自分自身だけである。本人次第である。本人が、それを望まないなら仕方のないことだ。それは、本人が決めることなのである。ただ、私も、アマチュア・ゴルファーのひとりとして、いや、ひとつのスポーツを極めるために努力して来た人間としてこのことは、十分わかるし、自分でも努力して来たと思う。

ニクラウスが、あれだけの地位と名誉と財産を自分の手にしているにもかかわらず、いまだに勝ち続け、しかも数々の記録を更新し、そしてなおゴールを求めそのゴールをより深いものにしているのは、何故か。彼もまた、王選手と同じなのであろう。

そこまでに到達して考えてみると、では彼らに残るものは、一体何なのか。と問いたくなるかも知れない。私は、そこまで到達した人間たちが持っているものは、エゴでしかないのではないかと思うのだ。エゴがあるからこそ、あれだけどん欲に、自分を追及できるのではないかと思うのである。そして、そこにあるものは、金でも、名誉でもない。もっと純粋な別の何かなのではないだろうか。私は、その中にも、アマチュアリズムを見ることができるのである――。