中部銀次郎

てごわい相手との決勝戦

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(1)

この頃(1964年前後)のアマチュア界は、数多くのつわものがそろっていた。全体的にレベルも高く、必然的に試合も充実した内容のものが多かった。

堅実で、権威のある試合というのが文字通り行なわれていたのである。大競技に出場するベテランの方々も、かなりいて、全く油断のならない展開が、常に繰り広げられていたのである。現在のように学生ゴルファー全盛期ではなかった。ベテラン勢の中に混って、10〜15人ほどの学生ゴルファー(私たちを含めて)が善戦するといったものだった。そして、この頃が、ちょうどひとつの時代の交代期になっていたようである。

戦いが充実していたということは、ちょっとでも楽をしたり、練習を怠ったり、気を抜くと、あっという間に置いてきぼりを余儀なくさせられるというものだった。周囲は、強豪揃い。前年、優勝できなかった私は、1から出直しという気持ちでこの年を迎え、この試合に挑んだのだった。

試合は、快調だった。準決勝で田中誠氏に9エンド8で勝ち、いよいよ決勝へとコマを進めた。対戦相手は、纐纈資郎氏だった。纐纈氏は、日本アマ初出場で決勝まで進んで来た。私にとっては、全くどんなゴルフをする人かわからず、相手としては、不気味だった。特に、マッチ・プレーでは、相手を“読む”ということが、かなり大きなポイントになって来る。相手の性格、ゴルフを読んで、自ずから攻め方などが変わって来るのだ。

例えば、マッチ・プレーは、前半、後半の36ホールで行なわれるが、攻め方は前半18ホールでの戦いで決めて行く。その相手に合ったかけ引きをだ。人によっては、その人に合わせてピタリとついて行くようなプレーをする。ずっとこっちが、がまんして待っていれば、必然的に相手から終盤崩れて行くタイプ。往々に余り場なれしていない人は、こういった感じのプレーをする。その大きなポカをするのを待って、ピタリとついて行くようなプレーをすればいい。逆に、前半、飛ばしに飛ばして、18ホールを終わった時点で、7アップぐらいして、相手に徹底的なダメージを与えて、挽回不可能にしてしまう場合もある。これが、18ホールで、4アップぐらいでは、逆に後半追いあげられて、逆転される可能性が十分でてくる。相手によっても、そして、その日の自分の調子によっても違ってくるのでそのときの“カン”が大きくものをいうわけだが……。

纐纈氏との場合はどうだったか。皆目見当がつかないゴルフだったので、まずは、ピタリとついて行こうと決めた。マイペースでどこまでついて行けるかが問題だったが、私の調子も悪くなかった。ピタリとついて行き、しかし、絶対に相手より先に追い越さないように考えていた。相手のゴルフを見ながら……。そして今度は、2人の差だ。2人の差を大きく引き離さないことだ。そして、私が負けてもオール・スクェアになるような僅少差にしておく。

何故、相手の先を越したり、僅少差にしておくのか――。それは、相手のペースを変えるような行動をとらないためである。全く違った冒険をしてグングンと挽回してくるかも知れないし、その逆になるかも知れない。つまり、居直られてそれが成功してしまったら、今度は、こっちのペースが完全に崩れてしまうからなのだ。

(2)

纐纈氏との決勝戦は、大変苦しかった。まず、かけ引きが通用しないタイプである。粘り強く、巧みだった。

前半、5番ホールまでオール・スクェアだった。6番ホールで、纐纈氏がまず1アップ。7番ショート・ホールにやって来て、私が、ピンにピタリと寄せてバーディをとり、オール・スクェア。今から思えば、このホールが勝敗の分かれ目だったかも知れない。私の内容は、良かった。逆に、相手は、寄せワンのゴルフが多くて、もうひとつしっくり来ていないようだった。と言うことは、いつかは寄せワンが、ワン・パットでなく、2パットの可能性もあるわけだ。が、纐纈氏のパットは巧みであった。ここで石井廸夫プロの言葉が思い出される。相手がグリーンに乗ったら1パットと思え――だ。

ピタリとついて行くうちに、そして、かけ引きが通用しない相手で、巧みであるということから、マイ・ペースのゴルフに専念した。午前の18ホールを終えて私は、5アップしていた。しかし、まだあとがある。油断はしなかった。午後はバーディの応酬だった。午前で5アップは、相手にチャージをかけるに十分なものだった。午後アウトの9ホールで、私は、2ホールとっただけで、相手は、その倍の4ホールをものにした。その差が3アップでインに向かって行くことになったのだ。

相手が崩れたのは12番ホールだった。左ドッグ・レッグの400ヤードのミドル・ホールで、纐纈氏は、ここでは予選からずっとティ・ショットをスプーンで打っていたのを、初めてドライバーで攻めた。それがOBとなって、このホール私がとった。続く13番ホールは、纐纈氏が、そして15番ホールで私がとって、試合は、終わった。4エンド3だった。

豪快な試合だった。苦戦した。

そして、二度目の日本アマチュア選手権のチャンピオンになったのである。この年、ようやく何となく勝つ方法が理解できるようになった頃でもあった――。

(編集部注 この試合で面白いエピソードがあった。予選ラウンド、17番まで2アンダーで走っていた中部が、18番ホールのティ・ショットでOBを出して、広瀬氏に1打差でメダリストを逸したときのことである。すでにテークバックを始めた瞬間、人が目の前でゴソゴソと動いたのだった。あっと思ったが、クラブを止めることは不可能だった。しかし、このことに関して中部は、ひとことも言わなかったという。それを見ていた新聞記者が中部に聞くと「ゴルフは、たとえどんな邪魔が入っても、ミスしたらその本人が悪い」と答えたという。新聞の囲み記事にその話も載っていた。これで、タイトル獲得数が10以上になったという。その当時「タイトルは全部とりたい」と意欲も満々だった――)