(1)
試合に出れば、目的はただひとつしかない。“勝つ”ためだ。勝とうと思って試合に出場するのである。
ところが、確かに勝つという目的で挑むのだが、宣言して勝てるものではない。では一体、勝ちたくないのかと問えば、勝ちたいし、勝つために挑むのである。これは大変微妙な問題である。技を磨けば磨くほどに、分離し難いある種の部分に突きあたるのだ。自分の思う意識と結果の違いが、明確にもなって来る。
そこに、勝負の妙がある――。
私は、そう書いた。確かである。しかし、では一体、一見矛盾するような表裏一体のその“部分”について説明せよと言われても、書き尽くせず、不可能に近い部分にさしかかって来るのである。言葉で、文章でいくら解説できたとしても明確に理解してもらうまでには至らないと思う。何故なら、この部分だけは、自分で体験したことのない人には、どうしても別の部分の話でしか受け止められないからである。その場合に出くわして、始めて肌で感じることなのだ。そして、チャンスに恵まれる可能性は、非常に少ないと思う。
このページを担当してくれている記者と、論議を交わしたことがある。記者は
「確かに言葉では何となくわかる。だがもうひとつ突っ込んで、その矛盾するような、誰もが体験し得ない、表裏一体の部分について、もっと深く知りたい」
と言うのである。
「それは無理だ」と答えた。もうひとつ判らないという。無理からぬことだと思う。
これは、決して私が、優越感にひたって言っていることではない。先ほども述べたように、要は、そういったチャンスに出くわすのが非常に少ないために、本当に自分だけしか感じることができないために、他人へのアピールが大変難しいということなのだ。
ただ、ここで、そう考えているのは私だけではない。つまり、頂点を極めようとしている人間。或いは、頂点を極めた人間。そういう人達の考えの中に、イコールの部分があるのだということだけは私にも言える。
それを立証するチャンスに恵まれたのだった――。
つい先日。久しぶりに私は、稲尾和久氏と会った。もう10年以上のつき合いである。言うまでもなく、稲尾さんは、元西鉄ライオンズ現役時代、名投手として大活躍し、数々の記録をつくった人である。私は、稲尾さんと、記者と3人で会った。記者が稲尾さんに質問を浴びせる――三振をとろうと思って、とったことがありますか。勝とうと思って、勝ったことは? ストライクを出そうと思って……。
正確に言えば「ない」という返事である。いや、もっと正確に言えば「打者を殺したい(アウトにしたい)と思って確かに投げるが、マウンドに立ち、構え、そして投げる瞬間というのは、何も考えていない。では、どうしたらアウト(三振)になり、どうしたら打たれるか。それは判らない。例えば、構えたときにストライクかボールか決まってしまうといってもいいし、最後の中指の第一関節を離れる瞬間にも、微妙にボールは変化する。勝とうと思って勝てたことはないんだ」
不出世の名投手である。その名投手がこんなことも言っていた。
(2)
「最近の高校野球の投手は、大変器用なんだ。いくつもの変化球を投げられる。僕らの時代は、直球とせいぜいカーブ。そのカーブですら“カーブ”と言えるしろものではなかった。しかし、基礎体力はしっかりしていた。今のような3年間でインスタントに仕上げたものでないからね。
変化球にしても、入団して6年目頃だったかな“あっ、これがこのボールの持つ味なのか”と思ったのはね。本当にそのボールを投げたという実感のあるものは、数えるほどしかないよ」
稲尾氏の記録を今更ここでならべるまでもない。防御率1位5回。30勝以上連続3年の記録。最多連勝記録20連勝などそして昭和33年日本シリーズで、巨人に3連敗してから稲尾氏の好投で大逆転4連勝は、想い出深い。
――あのときの気持ちは?
「勝とうなんて思ってもいなかった。1球1球。打者1人1人が勝負だった。投手は常に打者より1球有利な立場にあるんですよ。
そして、最低でも5球までは持ち球がある。最後の6球目が勝負でね。その間ですが、考えることは計り知れずに頭にあるんですが、いざ構えるとスーッと消えて行く」
話は、まだまだ続いた。そして記者は
「全く中部さんと同じことを言っていますね」と言う。
――稲尾さん。あなたが現役を引退するとき、現役投手に未練がありましたか。
「あった」
と答えたのである。話は、ちょっと飛ぶが、私は、過去に一度稲尾さんに同じ質問をしたことがあった。そして「あった」という答えを聞いて、悩みが解消しすがすがしい気持ちになったことがある。
そのことについては、いずれ話すが僕も人間なのである。所詮、人間がスポーツの世界に生き、戦っているのだ。
「現役を退くとき、自分の意識では、まだ投げられると思っていた。自信もあった。そして確かに極めることができていたんだ。
心は、以前よりももっと深く広がっていたかも知れないね」
――勝ちたい。その意識があって、その中で無意識のうちにプレーする。無意識であって、実際、勝ちたいという気持ちがある。矛盾した話のようだが、表裏一体の紙一重の部分。実は、それが技術を磨いて行くにつれて難しい問題であって、こればかりはその体験者本人しか知り得ないことである。
「実は、今夜、ジャイアンツのワンちゃんと約束があるんだ。これから一緒に行こうよ。ワンちゃん(王貞治選手)にも聞いてみるといい」
稲尾さんはそう言って私達と店を出た。
