(1)
大学時代は、ひとつの充実したゴルフ期と言える。悩みに悩んだあとに、大きな広がりを見つけることが出来たのも、この時期である。折につれて、数多くの先達からの言葉に、捨て去って行くものは、ひとつもなかった。すべて吸収して行った時期でもある。
石井哲雄プロ、藤井義将プロの2人のアドバイスに加えて、またもうひとつあった。もちろん、中村プロのアドバイスもスコア・メイクに欠かせないものであった。藤井プロは、パーに対する数字的考え方であった。そのパー・スコアの持つ幅である。一方、中村プロは、全体のスコアの考え方である。
ここに、ハンディ6の人がいるとする。とすると往々に人は「各ホールで区切ることしか考えない。ここでボギーを叩いてしまった……どうしよう……」だが、逆に、9ホールで区切ったら、ハーフで3回ボギーを叩けるという逆論法である。それが18ホールで6回、27ホールで12回、4日間競技なら24回のボギーを叩けるということなのだ。
「9ホールで区切るから、とてもスコアに対してきゅうくつなんだ。ハンディ6なら18ホールで6回ミスしていい。だから、たまたま1番で3オーバーにしてもまだ17ホール残っている。パーあるいはバーディが、まだ出る可能性があるかも知れないから、絶対に捨てはいけない」
その考え方で4日間のトーナメントでできるぐらい通せればなおさらいい、と言うことなのだ。
この3人のプロの意見は、私にとって実に有意義だったことは言うまでも、ない。私は、1年目より、2年目。2年目より3年目と目に見えない幅をもって日本アマチュア選手権に立ち向かうことができたのであった。
1962年の日本アマは、兵庫県の広野ゴルフ倶楽部で行なわれた。第1日は、雨で予選36ホール・ストローク・プレーのうち18ホールを消化しただけで、残り18ホールは翌2日目に持ち越されてしまった。豪雨で一時的にグリーン上に水がたまってしまうほどだった。第1ラウンドでは、私は80で回っていた。首位は、77で2人いた。翌日になってもまだ雨は止むことを知らなかった。試合は、かなり荒れ模様だった。私は、アウト、インともになんとか30台でおさえて、77でホール・アウトしたのである。
日本アマでは、3年連続のメダリストとなったのだ。
(2)
メダリスト男と言われた私は、このメダリストを加えると合計9つのメダルをとったということで、面目躍如?ということだったのだろうか。私は、そんなことよりも、これから先のことで頭がいっぱいであった。それこそ“メダリスト”2回戦ボーイと言われていた“汚名”?を一挙に晴らさなければいけないと思っていたのである。
確かに、今から思えば、この年に入って、私のゴルフは変わっていた。3人の先達のアドバイスもそうであったし、私の中には、球質を見分けることすらできていたのである。自分の球質ばかりでなく、相手の球質を見分ける選球眼は、マッチ・プレーにおいては、最も大切な要素のひとつであろう。相手の球質を見極められれば、だいたいのメドがついて来る。つまり、自分がどういう攻め(コースと相手に)をしたらいいかだ。いや、それよりも、もっと、相手が、この球質だったらどういう風な失敗が起こりうる可能性があるということを知った上で、攻められるわけだ。だから、まず「あ、いいボールだ」というだけで済ましてはいけないのである。そのとき、相手の球質を見て、<これはいつかきっとダットサンを出すな>というようにことがわかる。もちろんスウィングを見てもいいが、ショットを見れば、つまり球質を見れば、より克明にわかるのである。
こういった選球眼を養うというのは、自然にできあがるものであって、どうすればということはない。やはり、放たれるショットを見、ボールを見、そして自分の中から出て来るものである。最近では、素晴らしい選球眼を持った人というのが、だんだん少なくなって来ているように感じる。
例えば、野球でも、重いボール、軽いボールといったような表現の仕方としている。それは、今でもいちばん大切な部分であるのだ。ゴルフでも同じである。しっかりした球質であるとか、不安定なそれであるとか言ったものを、しっかりと見極めておかないと、大きなまちがいを犯す可能性が出て来る。確かにフェースのある部分に当たれば、だいたい似たようなボールが出るが、実際は、そんなラフなものではないのである。
決勝ラウンドを前にして、私は、改めて自分自身をチェックしてみた。私は、私なりに多くのチェック・ポイントを持っている。これも大切な部分である。それは、自分なりにクセもあれば、弱点もある。ミスなら、どんなミスが出るかをよく理解していなければならない。それがわかった上で、ミスしたらこうなる。では、そのカバーは、こうする。といった方法も頭に入れておかなければいけない。ショットでも、スウィングでも、すべてにおいてそうである。
決勝の第1回戦は、石本喜義氏が対戦相手であった。昨年(61年大会)の決勝戦で敗れた相手である。私は、運良く石本氏に、5アンド4で勝つことができたのである。ショットは当たっていたし、パットもまずまずの出来であった。
そして、2回戦へと駒は進んで行ったのである。私は、精神的にも、技術的にも石本氏に勝てたことでかなり自信がついたのかも知れない。それに、初出場してからまる2年間、私なりに努力も重ねて来たのである。すでに“カッコいい”ゴルフという考えは、私の中には微塵も残っていなかったのである。これは、藤井プロのアドバイスのお蔭である。そして、グリーン上でも、石井プロのアドバイスが頭に浮かんでいた。中村プロの、「絶対に試合を投げるな」もあった。
これらのことが、単に言葉だけでなく自分の中のものとしてあったのである。
2回戦は、同じ広野の吉川隆氏との対戦であった。2アップで私が勝ち、いよいよ、準決勝、決勝へと進んで行った。準決勝は、広瀬義兼氏と対戦することになったのである。
