(1)
試合前夜というのは、なかなか寝つかれない。一度ベッドの中に入っても、意識ばかりはっきりして、ときには急に思い立ったようにベッドからはね起きて、素振りをすることすらある。目をつむるとボールが浮かんで来る。自分自身のスウィングが、ボールが飛ぶ――。
……1番ホールは、なだらかなフェアウェイ。左右にバンカーがある。落下地点は狭い。ショットは、右バンカーへ……第2打は……2パットのパー……そして2番ホール……ボギー……。
こんなシーンが18ホールズまで続く。パーもあれば、ボギー、バーディもある。1打1打。まるで画面に映し出されたように鮮明に脳裏を走る。飛んで行く球筋も、ショットも――。こんな“仮想画面”が、翌日になると実際のものとして出来上がって来るから不思議である。
2回目のチャレンジ。1961年の日本アマチュア選手権は、茨城県の大洗ゴルフ・クラブで行なわれていた。この年私は準決勝に勝ち、決勝までこぎつけたのである。対戦相手は、石本喜義氏だった。決勝戦は、1日36ホールのマッチで行なわれる。午前18ホール。36ホールズのメダル・マッチである。
いよいよスタートだ。
1番ホール、ともにパー。次の2番ホールはパー5だが、ここで1ダウン。ハーフを終えて、6ホールとられ、私は1ホールとっただけ。5ダウンだ。10、11番ホールをとって3ダウンにしたものの続かず、12〜15番まで分け。石本氏は16、18番もとって、午前中で5ダウンとなってしまった。決着がついたのは、午後の15番ホールだった。4エンド3で敗れてしまったのである。
敗因のひとつは、パットだった。
私は、パットが苦手だった。3パットも多かった。肝心なところで、それが出てしまったりする。パットは、一般的なレギュレーション・ストロークで言えばパー72を基準にして、ちょうど半分の36ストロークになる。その半分を形成する部分がパットであるという意識、意外に持たないで済ませてしまうことが多い。
その36ストローク分は、ドライバーのように力はいらない、スピードはいらない。なおかつ、数字(スコア)をつくりあげるいちばん最後の場面でもある。これがパッティングだ。外したから5になった。入ったから3になった。という数字に結びつけられる可能性、要素が高いということなのだ。そして、数字的にも縮められる(ストロークを減らす)ことができ易いものである。だから、非常に大切な部分なのである。優勝と結びつけやすいから……という考え方が一般的なのだろう。勿論、ゴルフは、パットだけではない。ティ・ショットから始まるのだが、以上のようなことで、パットの重要性というのが、クローズ・アップされて来るのだ。
そういう見方をすれば、私が連続的に3パットをしたり、パットが下手であるということは、到底、勝てる要素を薄くさせる原因と言える。
(2)
時を前後して、パットが下手。或いはマッチ・プレーに弱い。ということの原因追求や研究。それを養うための努力を重ねていた。
パットに関しては――少なくともグリーンを狙って行くショットからの研究をした。つまり、グリーンの何処へ落とせばパットし易い所か。また、ピンに向かって少しでも近くに寄せるだけのショットの技術。まず、グリーンである。最低でも半分に分けた。前後か、左右。特に左右に分けることが多かった。これは、意識的にというよりも、結果論として、こうしたことで良かったというものではあった。
そんな頃である。石井哲雄プロに、強力なアドバイスをしてもらったのは――私が、マッチ・プレーにどんどん勝てるようになったのは、このアドバイスのお蔭と言っても過言ではない。
それは“ホール・マッチでは、相手のボールがグリーンに乗ったら<ひとつ>で入ると思え”――ということだった。
たとえピンまで20メートルの所にあるボールでも“相手は、それを1パットで沈める”と思えばいい。ピン50センチでも“2パットしてくれ”。いやな距離3メートルでも“3パットしないかな”といった相手まかせのミスの期待は、絶対に持ってはいけない。そういうことなのである。まず、自分自身、非常に楽にパッティングができる。精神的にかかって来る負担が、まるで違って来る。例えば相手が20メートルのパットをすると、20メートルだから良くて2パット。ひょっとしたら3パットしてくれるかな……とかすかなミスへの期待を持つとする。果たして、そのロング・パットを1回で入れてしまったらどうだろう。ミスへの期待が、もの凄いショックとしてはねかえって来るのは、当然であろう。では、最初から、3パットの期待をせずに、1パットで入れる。つまり<ひとつ>と思ったら……その<ひとつ>で気持ちは、イーブン。2パットなら、3パットなら……今度は、嬉しい“裏切り”になるわけである。
つまり“ショックの吸収”ということなのである。このショック・アブソーブが、いろいろ備えられるかによって、精神的な幅がどんどん大きくなって来る。
確か、大学1年の終わり頃に、たまたま石井哲雄プロからこの話を聞いたのだが、これがもの凄い支えになったということは、言うまでもない。たったひと言で、私を開眼させてくれたといってもいい。マッチ・プレーに弱い。メダリストはとれても、2回戦ボーイだ。こういった私の上にある“汚名”を十分返上させるものだったのである。
私が試合に“勝つ”ための、そういったアドバイスは、まだまだある。そんな話を聞いて“なるほど”と納得できるものは、技術的にも、精神的にも全部、自分のものに吸収していったつもりである。
そんな、数々のショック・アブソーブは、今でも私の心の中に、十分繁栄しているのであった。
大学2年に入って、私は、より充実したプレーを試合の中で展開させることができたのである。体力がつき、技量をより深め、そして精神的にも大きく育って行った時代であった。私は、それから数々の試合で優勝できるようになった。
