中部銀次郎

ゴルフ人生、ひとつの岐路

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(1)

敗れて、さわやかだった。

恐怖と、好奇心が身体中を走り回っていた1番ティ・グラウンドから始まった初出場の日本アマチュア選手権。自分の“成績”が、そのまま記録として公表されてしまう恐怖心、そして好奇心……。

今は、もうすべてが終わっていた。頭の中には、ぐるぐるとその道程が駆けめぐっていた。あのときのOB。あのときのパット。そして、残された“課題”が、いやというほど頭にこびりついて離れなかった。だが、このさわやかさは、いったい何だろう。それは、浪人中の私にとっての清涼剤だった。それに、敗れた悔しさであった。次第に“勝つこと”に対する意欲を燃やす材料でもあった。

――それから2、3ヵ月が過ぎて行った。受験勉強にとりかかりながらも、真夜中に、ハッと思い立っては、突然ドライバー1本片手に、庭先に走って行く。そこで素振りをする。よくそんなことを繰りかえしていた。その年。つまり1960年の9月。私は世界アマチュア選手権の日本代表選手のひとりとして米国に行くことになったのである。代表に選ばれたのは、金田武明氏、石本喜義氏、田中誠氏、そして私の4人であった。

――私の人生を変えたのは、この事実だったのである。

1960年。9月15日。私たちは、米国ペンシルバニア州アードモアへ向けて出発した。私は初の遠征、しかも初めての外国ということから、その緊張をかくし切れなかった。年齢もいちばん若い。紅潮し、興奮した中に「どれだけできるか試してやろう」という気持ちもあった。およそ100人の人たちが見送りと激励にやって来ていた。

だが、私の期待や欲望はたちまちのうちに砕かれてしまったのだった――。

《もし》……私がこのとき、世界アマに行っていなかったら……。そして《もし》ボビー・ジョーンズやジャック・ニクラウスに遭遇していなかったら……。そして《もし》彼らを生んだ、彼らを持つアメリカという国も見なかったら……。

《もし》という言葉は、好きでない。が紛れもなく、この《もし》……の存在は私の中にあったのだ。で、もし、世界アマに行って、彼らを知り得なかったら、漫然として、そのまま何の刺激もなく過ごしていたかも知れない。そして、もっと“楽に”生きられただろう。逆に言えば上達しなかったと言えよう。努力する度合、練習する内容が根本的に違っていただろう。

(2)

惨憺たる思いで私は、帰途についたのだった。私が残像としてあったものは、みじめさだった。つまらなさだった。自分が、体力的にも何につけても劣っている。アメリカと日本。その土壌の違い。やるせなさがあった。よくも、そんな中で私は戦った(もがいた)。その恥ずかしさでいっぱいになった。日本に着いた時点で、ひとつの区切りはついていた。アマチュアの範囲で、ワールド・ワイドで闘うことの限界を感じたのである。大海に出て、始めて“井の中の蛙”にならざるを得ないことを知らされたのだった。

では、井の中の蛙で大将にまずなろう。この中で大暴れする。それは、ひょっとするとワールド・ワイドに対するフラストレーションだったのかも知れない。しかし、漫然とゴルフの試合に出ていた私にとって、とにもかくにも、大きな目標が、はっきりと浮かび上がって来たのだった。それが“優勝”することだった。

メダリストにはなれても、優勝はできない。2回戦ボーイと言われ、マッチ・プレーに弱いと言われていた。それが、その頃の私だった。

慶応大学に落ちて、浪人中の私は、そんな思いのまま受験勉強を続けた。そして、翌年の春。甲南大学に入学したのだった。入学して、考えることなくゴルフ部に籍を置いたのだった。毎日のトレーニングが始まった。うまくなろう。勝ちたい。それだけだった。元来、私は、競争心とか勝負師根性とかいうのものは、余り強いものではなかった。思うに勝負師としては向いてないのではなかったろうか。そんな私に、またゴルフというスポーツは幸いしていたのだろう。

例えば、格闘技。手で互いに触れて勝負するボクシングなどだったら、絶対に向かないだろう。逆にネットをへだててするテニスやバレー・ボール、あるいは野球などならまだ向いている。ひとつには私自身の体力的なものから来るものがあった。他人よりも小さい。そんな体力的なコンプレックスもあった。だから、技術を磨きあげれば互する、勝てる。自分なりのことでゲームが展開できるゴルフは中でも私に近かったのだろう。

ゴルフ部に入って、トレーニングや走り込みといった体力づくりが毎日のように行なわれていた。その中で、私は、ランニングなど、常にトップを走るように心がけていた。それには理由があった。私のオリジナルな性格として不足している競争心を高めることだった。他の連中を引っぱって、そして彼らに「負けない」という気持ちを持っていたかったし、より強く養いたかったからである。事実、何度となく負けそう(バテそう)になったことはある。そんなとき「負けてはいけない」という気持ちがわいて来る。そして「負けまい」と努力する。

この年。1961年、私は、無冠に終わってしまった。
日本アマでも、2年連続メダリストを獲った。そして、準決勝へと進んだのだった。この年、私たち3兄弟は、そろって予選通過していた。長兄の一次郎は、一昨年(1959年)のチャンピオンだった。次兄の幸次郎も、慶応大学で中堅選手だった。

私は、麻生義太賀氏と並んで2ラウンド152でメダリストになった。決勝の1回戦は、中川好生氏だった。1アップで2回戦へ。金田武明氏に3アップして3回戦の準決勝へと進んだ。準決勝36ホール・マッチは、富田浩安氏だった。9アンド7で私が勝ち、初めての決勝戦を迎えることになったのである。

相手は石本喜義氏だった。石本氏は、同じ甲南大学の先輩だった。準決勝の富田氏は、その前日までの調子を狂わしていて、私にとにかく各ホール「パー・プレー」を目標にゴルフをしていた。が、その日の石本氏の内容は、素晴らしいものだった。明日の決勝を前にして私は、なかなか寝つかれなかったのだ。