中部銀次郎

1960年 日本アマチュア選手権

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慶応大学の受験は、あまり乗り気ではなかった。東京に出て、大学に通うというのはいいが、ゴルフをする場合でも、1日がかりで遠い距離を費やす。それに東京へ出て、今までのようにゴルフができるかという疑問もあったのだ。

大学受験というものに、所詮、親の希望というものが加味されるというのが常だが、私の場合もその例にもれることはなかった。それに兄ふたりが慶応にいてふたりともゴルフ部で主力選手になって活躍していた。私が入って兄弟がそろって同じ大学のゴルフ部で活躍ということをも考えていたのだろう。だが、私はそんなことよりも、自分のゴルフを主に考えていた。その年、私は東京へ出て慶応大学の受験をすることになった。試験は、午前、午後とあった。午前中の試験科目を終えた私は、いてもたってもいられなくなって、午後は、受験しないで校舎を出てしまったのである。これでは受かるわけはない。あとで、それを知った両親は、かなり怒った。が、ある意味では、私は進んで浪人生活に入ったのだった。

私は、車が好きだった。浪人中、よく勉強がイヤになっては、真夜中に車を走らせて、海へ行ったり、深い山へ行ったりしていた。深い夜の道をひとりで車を走らすことは、自分の気持ちを落ち着かせるものである。

関西学生招待や、そのほかいろいろな試合に出るようになったのも、高校3年から浪人中のことだったのである。その試合に出ていた最初の頃は、今でもよく覚えている。何とも言えない気持ちが、身体中を駆け回っていた。それは、確かに私であって、また、私でないような部分が、多分にあった。

中でも、1960年。ちょうど浪人中に出場した。日本アマチュア選手権である。この年の日本アマは、名古屋の愛知カントリークラブで行なわれた。7105ヤード、パー74。出場選手は105名だった。

日本アマチュア選手権――思えば私はこの大会を耳にしたのは、ゴルフをはじめた小学校の頃からであった。

「日本アマに出たい」「日本アマの予選に通った」……私が練習する横で、大人たちがそんな会話を交していたのである。

親父にしても、兄たちも日本アマに出ていた。そんな会話が、知らずのうちにいつしか私の中に入っていた。私もいつかは出場してみたい、と思っていたのである。その夢に似た試合の出場が、現実に私の目の前に現われたのだった。

(2)

まず36ホールのメダル・プレーの予選が始まった。私は、出場者の中で最年少者だった。1番ティ・グラウンドに立った私は、ある戦慄が身体の中を駆けめぐるのを感じた。何と言ったらいいのか。武者ぶるいでもない。いきがりでもない。いや、ひょっとすると、そんなものが全部あったのだろうか。ボクシングで第1ラウンドのゴングが鳴る寸前の、100メートルのスタート・ラインにつく寸前の、100メートルのスタート・ラインにつく寸前の……どんなスポーツでも、スタートする寸前の、あの気持ちである。言い知れぬ“何か”に対する期待と、即座に想い浮かんで来る自分の不備さ。頭の中は、そんなあらゆるものが混沌として、グルグルと走り回っていた。そして思い切りをつけなくてはいけないときがやって来た。

軽いスライスがかかったティ・ショットは、フェアウェイやや右に止まった。

午前中に18ホール。私は、37、37のパー・プレーだった。同じイーブン・パーが5人。70台が30人いた。午後になって35、40で、トータル、1オーバー・パーで私は終了した。果たして私よりスコアが良かった選手は、誰もいなかった。私は、日本アマチュア選手権、初出場でメダリストになったのであった。“18歳のメダリスト”ということで周囲は驚きと一種の羨望があったらしい。だが、私は結果的にメダリストになっただけで、これから始まるマッチ・プレーでの決戦に思いあぐんでいたのである。

2日目は、9時から予選通過者16人による18ホール・マッチ・プレーが行なわれた。その日は、1回戦と2回戦があった。1回戦は当時茨木の塩沢氏と対戦して、7エンド5で勝った。2回戦は当時我孫子の富田氏と対戦した。アウト3アップ、イン12番までで4アップと私がリードしていた。が、13番ショート・ホールでバンカー・ショットをミス。そこで1ダウンして、また3アップに戻った。

そして14番ホールでセカンド・ショットがなんと飛んでいるヒバリに当たってしまうというとんだハプニングがあって、そこでまた1ダウン。15番では富田氏が100ヤード近いアプローチをホール・インしてイーグル。たちまち私は1アップと預金を減らしてしまった。余談だが14番でヒバリに当たって、そのヒバリを「剥製にしたら」と言われたことを覚えている。試合は、16番ショート・ホールで富田氏が3パットをして、17番では分けで、2エンド1で2回戦を勝ちとった。

私は、準決勝に進出したのである。

3日目は、朝から激しい雨と風に見舞われていた。準決勝は、36ホールズのマッチ・プレーで行なわれた。相手は、オカフジ氏(当時武蔵)だった。午前中の18ホールズは、私が1アップして終え、午後へと折り返した。その午後の5番ホールで私はティ・ショットを右へOBしてしまった。それまで一進一退のシーソー・ゲームだった戦いが、何かプツンとその糸が切れてしまった感じがあった。16番でオカフジ氏がバーディをとった。私は、13番ボギーにしたものの14、16番ととって、2ダウンを一挙にオール・スクェアまでもって行ったのだった。

17番ホールが勝負だった。そこでオカフジ氏が約2メートルのパットを決め、私は、それより短いパットをはずしてしまったのである。18番ホールもとられてしまって、結局2ダウンで敗れてしまったのだった。

日本アマチュア選手権、初戦のできとしては良しとしなければならないのだが私には、残された課題がいくつも出て来たのである。メダリストはとっても、マッチ・プレーになると弱い――いつしか私は、2回戦ボーイと言われるほどになってしまったのだった。それほどメダリスト、2回戦――という成績が多かったのである。マッチ・プレーに勝てない。これも課題のひとつだった。