(1)
悩みのスライスは、その曲がりがだんだん少なくなって来た。
それは何も技術的に大きく変化したからというわけではない。むしろ、もっと私自身の中にあった。元来、私の身体は小柄である。その頃160センチちょっとあっただろうか。体重も50キロをやっと超えた頃であろう。それでも、以前と比べれば、成長して来たのである。つまり、スライスは、身体が成長するにつれて、曲がる度合いが減って来たと言える。
ゴルフに必要な体力、パワー。その最小限にも満たなかった頃からやっていたゴルフに、所詮、無理があったのだろう。
成長して行くにつれて、スウィングもよりゴルフスウィングらしくなって来たのである。ぎこちない前にあげて引くスウィングから、そのトップ・オブ・スウィングの位置が、だんだん不自然でなくなって来たのだ。どういうことかと言うと、例えば子どもが殴る動作をするときと、大人、極端に言って、プロ・ボクサーの鋭いパンチを繰り出すときとの差を考えてみればわかると思う。子どものそれは、右わきも開いて、ぎこちない殴り方である。つまり力がつくにつれ、自然、右わきもしまって来たのである。
極端なアップライトスウィングからそのために、ややフラットスウィングになって、スライスはある程度解消して来たのだった。
イガグリ頭だった私も、中学時代から言わゆる坊っちゃん刈りになって、そろそろ高校受験の時期になって来たのであった。そんなときであった。かねてから欲しいと思っていたクラブが、やっと私の手に入ったのである。それまで、私は昔あったボビー・ジョーンズの黒いハガネのシャフトを使っていた。それはボビー・ジョーンズ・モデルというものであって、さほど高級品と言えるしろものではなかったように思う。そのクラブから、マグレガーのMTターニーのセットに変わったのである。これは、親父が愛用していたものだった。例の56、57年までのマグレガーのモデルである。
実は、秘かに私はそのクラブが欲しくてたまらなかったのである。家の中にそのクラブが置いてあると、よく私は、そこへ行って独りでそのクラブを見ていたものだった。取り出して握ってみると、実にいい感じのするクラブだった。クラブというのは、まさに握ったときの感じで決まるような気がする。構えて、あっこれはいいと思えば、最高である。親父の使っていたそのクラブが、まさにそうであった。特に、中でも7番アイアンが好きになった。そのロフト、長さ、重さといい、何となく好きだったのである。全体に、そのクラブは、私にピッタリと合っていたのである。どういうきっかけで“ぶんどった”かよく覚えていないが親父のものから、私のものになったのだった。
そのクラブと、スライスの曲がりが少なくなったことで、私は、またスコアを縮めることができたのである。もともと体力のできてない私が、その中でスライスを直そうとしていたことにまず無理があったのであった。それは、例えば左手の使い方が悪くてスライスが出るということでは全くなかったのである。
(2)
名陵中学から、私は下関西高校に進学した。西高は、県下でもなかなかいい高校とされていた。ちょうど高校野球で知られている下関商業高校と塀ひとつへだてて隣りにあった。私は、肉体的な成長とともに、精神的にも、だんだん大人へ成長して来たのであった。ゴルフも、まだまだ、伸びて来た。このときに、私にとって大きく変化をもたらしたのは、グリップであった。ベン・ホーガンの『モダン・ゴルフ』が出て、グリップに注目され、それを私が自分のものにするのに2年間というときを費やしたのは、前にも話したが、まずそのことが、私の大きな変化であろう。
次に私は、それまで体力をつけることを自発的には何もしなかったのだが、進んでやるようになった。主に、走り込みである。私の家は、関門海峡の近くにあったのだが、そこからしばらく行くと、山の中を切り開いてできた道があった。
ちょうど関門トンネルから山陰に抜ける道と、関門大橋から国道1号線の道を結ぶ道である。長府に行く途中の5キロばかりの所を走ったのだった。毎朝6時頃、まだ車の量もほとんどなく、折りかえして来ると、ちょうど太陽を背にして走って来るのだった。
そのほか、相変わらずゴルフは、週2回の練習だけであった。こうして、小学校4年から始めたゴルフが、もはや、6、7年にもなろうとしていたのである。ある意味では、トントン拍子に私は、上達の道を辿っていると言えるが、実際は、これからあとの時代が問題であった。これからあとの6、7年間というものは、全く思いもよらない方向へと進んでしまって、悩み、苦しみの毎日の連続であったのかも知れない。
そのひとつが、まず当面のグリップの修正であった。そして、次は、高校を出て、初めてローカルのクラブライフから公式戦である関西学生に招待され、出場したことにあった。いわゆる関西以西のオフィシャルな競技に出たのは、これが初めてであった。そして、日本全体のオフィシャル競技へと進んで行くわけだが、それを機に、私のゴルフも大きく変化して行ったのであった。
下関西高にいた私は、大学受験の準備にもかからなくてはならなかった。私の希望は、慶応大学に入ることだった。そこには兄貴もいたし、ゴルフにもいいと思っていたからである。高校3年に入ってゴルフは、しばらくおあずけをしなくてはいけなかった。そして、受験は、失敗したのである。私は、1年浪人生活を送ったのだ。関西学生選手権から招待を受けたのは、ちょうど、その浪人時代だったのである。今では、高校生が大学生に混って招待を受けて試合に出場するというのは、たいしてめずらしいことではないが、当時、しかも浪人中の私が招待を受けるというのは、注目をあびるのも当然のことだったのである。その初めての公式戦、私はメダリストになったものの、2回戦であえなく敗れたのだった。
