中部銀次郎

余りにも過酷な練習方法

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(1)

中学に入って1年目の夏を迎えたころから、夏休みに4日間ほどの家族旅行に出かけるようになった。親父をはじめとする3人の男兄弟、そして母親である。

男たちは、それぞれバッグをかついでの言わばゴルフ旅行である。その4日間というものは、毎日がゴルフであった。

場所は、毎年決まっていた。唐津ゴルフ倶楽部である。その頃、そこに所属していた島村祐正プロ(現在古賀ゴルフクラブ)が、私の家族と親交があったからである。ちょうど自動車で4、5時間ぐらいだっただろうか。

私は、その旅行が楽しみだった。親父と3人の兄弟でのプレーは、実になごやかで、しかも厳しく、楽しかったからである。そして、その夏の4日間の経験は後に私に大変大きな印象として残り、役立たせたものがあった。いや、正確には経験というよりも、ひとつの“目標”といったほうがいいかも知れない。

当時の島村プロの活躍は、今更私がここでいうまでもない。そして、全盛期にあった。話は、その島村プロのことである。私たちが朝早くからスタートして1ラウンドのプレーを終えて、入れかわりに島村プロは、練習に出かけるのである。

時間は、ちょうど12時を回った頃だろうか。真夏の太陽が、いちばん強くコースを照らし、セミの鳴き声が耳にうるさいほど響き、黙っていてもジリジリと肌が焼けて来るような日射の中であった。島村プロは、バッグを肩にかけてコースの中へ消えて行った。いったい何処で練習するのだろう。食事を終えた私は、島村プロが消えて行ったコースの中へと入って行った。

辿り着くと、そこはコースの中でも最も暑く、しかも風も全く吹かないようなくぼ地のような場所であった。最初、私は、何故こんな場所をわざわざ選んで、練習するのかわからなかった。すでに、汗は、シャツに水をかぶったようにぐしょ濡れになって、それももう渇きに入っているような感じさえあった。フェアウェイの照りかえしを入れたらいったい何度ぐらいの温度になるだろうか。

私にとって、これを目撃したことが、時間が経つにつれてノック・アウト・パンチを受けたほどに胸に迫って来る何かを感じたのは、その練習に対する島村プロの執念であった。そして、ひとつの教訓にも似た練習方法を、まざまざと見せつけられたのであった。

この暑さの中で、しかも1日のうちで最も暑い時間に、誰がいちばん暑い場所を選んで、好んで練習するだろうか。人は、ともすると、つい楽な方向に目をやって、楽して……と思う。それが本能であろう。暑いから、多少でも涼しい所で練習した方が、いいと思うに違いない。では、どっちが本当に身をもっての練習になるのだろうか。私は、島村プロの練習方法をとった。

もし、実際の試合で、そんな最悪の場面が何ホールも続いたら……。

(2)

それから何年あとになっただろうか。私は、日本オープン出場のために関西の茨木カンツリー倶楽部に練習に行った。公式練習日ではなかった。やはり暑い日であった。そこで出逢ったのは、杉原輝雄プロだった。そして、私が中学時代に目撃したのと同じ場面の再現であった。

私は、しばらく杉原プロのそばに近づくことさえできなかった。プロフェッショナルは、みんな同じだった。

杉原プロは、フェアウェイ・ウッドを打っていた。そして、その落下地点にはキャディがいた。そして、飛んで来るボールは、キャディが、余り動かないで、手を伸ばすだけで取れる地点に、正確に落ちるのだった。3番アイアンでも同じである。私は、改めてプロの厳しさを知らされたような気持でもあったのだ。

このふたつの目撃は、時代こそ十数年のズレはあるが、全く同じものである。

つまりこうである。同じ練習をするなら、その条件的に、いちばん過酷な状態をつくって(選んで)練習すべきだということなのである。だから、与えられた環境の中で、それ以上最悪な場所は求められないというような場所、時間を求めて練習をするのだ。

練習方法で、ここがこう、とかいった細かいものでなく、これほどはっきりとした条件と、効果的なものは、ほかにあるのだろうか。

私は、島村プロの練習風景を見終わるとまたクラブハウスに戻って来た。1時間、いや、2時間は過ぎただろうか。

実際、私は中学時代の記憶は余り鮮明ではない。だが、このことだけは、いつまでも私の心の中に刻み込まれていたのである。そして、それが実際、私にとって役立ったのは、高校、大学へと年が経つにつれ、そして数々の公式戦に出場するようになってからである。私自身、その島村プロが行なった練習方法を身をもって実行したのも、特にその頃のことである。

クラブハウスに戻ると、それからまた1ラウンドのプレーをするようなことはあまりなかった。ラウンド・プレーは、そうがつがつとしたものではなかった。その頃は、ある意味では今よりも、もっと優雅だった。逆に言えば、ゴルフを通しての会話と、生活があった。よく言われるクラブ・ライフである。

大人たちは、ひとしきりそこでゴルフ談義に花をさかせるのだった。もっぱらその頃は、スウィングについての話に、私は耳を傾けていた。まだ自分のスウィングがわからないままの日々だったので私には、興味深くその話に入って行こうとしていたのである。

親父は、相変わらず前に上げて引けというスウィングがいちばんだと主張していたのである。その当時、面白いことに私のまわりにいた人々は、フラットなスウィングというのは、悪いスウィングの代名詞のような感覚をもった人たちが多かったのである。どちらかといえば、今でいうアップライトなスウィングの賛同者ばかりであった。

まだ未熟な私は、その中に入って、ただ話を聞くだけの聞き役ではあったが、注意深くその話を聞いていた。だが、聞くうちに次第に私は、自分のスウィングというものに疑問を感じて来たのだった。