(1)
話がちょっと飛ぶが、私は大変恥ずかしがり屋だった。とにかく人前に出るのが恥ずかしかった。それは、年が経つにつれてその度合いを強くした。
だから、1番ティ・グラウンドでティ・ショットをするとき、誰かが見ていると思っただけで、もうメロメロになってしまうのである。人と会って、その人に挨拶されても即座に返答できない。その前に顔が、まっ赤になってしまうのだ。
そんな具合だから、コースに出ても大変である。尚更、トーナメントなどに出るとなると関係者やギャラリーがいるわけだから、推して知るべしである。
だから、ゴルフは「うまくなりたい」と思ってはいたものの、心の中では、大試合で勝ちたいという願望はあっても、現実的に自分の性格が、ゴルフ・プレーヤー(コンペティター)としては全く不向きだったのである。
私の持病の胃ケイレンの治療というのが直接のきっかけで始めたゴルフ。それにこんなにまで情熱を傾けるとは、思ってもいなかった。ただ、小学生の幼い考えとして、この一種の“遊び”或いは“パズル”が、簡単に制しやすい、つまりすぐに先が見えてしまうようなシロモノではなく、いくつもの壁にすぐぶつかり、なかなか砕けないもの、解けにくいものであるから、余計に奮い立ったのだった。最初は、その気持ちだけである。
まずは無我夢中の3年間が過ぎて、私のハンディキャップも20まで来た。そして中学校1年生のときに、12、11になった。その1年後には、ようやくシングルの仲間入りができた。私がもらったのは“8”だった。この間、私は技術だけでなく、それに付帯するあらゆるものをドン欲になって追い求めた。それを自分なりに実行したつもりである。
これは、高校1年生のときの話であるが、例の赤面恐怖症というか、その恥ずかしがり屋を治さなくては試合に出場しても絶対にいい成績は残せないと思っていた。それは、そうである。では、どうしたら治せるのだろうか。私は、真剣に考えた。これはゴルフの技術以外のことである。しかし、絶対に、なんとかしなくてはいけないものだ。
私は、あるデパートに通った。デパートには、人がたくさんいる。女性の店員も多い。ここだ、と思った。意を決して案内嬢の前に立った。いや実際には、その前をまず通ったのである。案の定、私の胸の鼓動は高鳴り始めて、顔は火のついたようにまっ赤になっていたのである。
そして、またその前を通った。
おそらく、私をじっと見ていた人がいたら、おかしくて仕方がないと思ったに違いない。でも、私は大真面目だった。これが“パス”すれば、おそらくスコアもかなり違って来るだろうし、敵からくるプレッシャーも多少減るだろう。そう堅く信じていたのだから……。
何日間かデパート通いが続いた。相手は、イヤな気持ちだったに違いない。私は、当時まだ16歳ほどだったし、ちょっと頭がヘンだとも思っただろうか。その気配はなかったが、その度に、相手をかえることにしていた。そのうちにドキドキが少なくなった。赤面も、である。
(2)
確かに、これは一例である。
しかし、私はこれに似た努力は決して忘れなかった。私のよく知っているある新聞記者がいる。いつだったか私はその人と話して、同じような“努力”をしていたと思った。彼は、小学校の頃から新聞記者になりたいと思っていたそうである。だから彼は、努力をした。勿論、幼い考えでの努力であったかも知れないが、彼は自分がまだ幼いということをよく知っていた。だから、その本質は追えないから、サイドから勉強した。
まず彼は、毎日何処へ行くにも、必ず右の胸のポケットに手帳とエンピツを入れて出歩いた。何かがあったら、すぐにそれに書くことを心がけた。次に、彼は、人間的にタフになろうと考えた。例えば、何処でも平気で熟睡できなくては新聞記者はつとまらないと考えて、ちゃんとふとんがあるのに、ソファで寝たりコタツで寝たり。この例をあげれば切りがないのだが、一見滑稽にも見えるこのことが、今、彼を大変楽にさせているということだ。どんな場面に自分が置かれても焦ることがないという。
私も実際、それとそっくりのことをしていたのだった。ゴルフの本を読みあさったことにしても、デパート通いをしたことにしても、そして、親父と一緒にプレーして教わったこと、技術がどうのではなく、ゴルフとはこんなものなんだという“ゴルフィング”が、まさにそうであった。100メートルのランナーは、その100メートルを9秒台で走ることを目指しての練習に、平気で毎日何万メートル走るという。だから中距離ランナーが、マラソンに出場してあっという間に優勝してしまうことがあるそうだ。ゴルフだからいいボールが打てればいいというより飛べばいい、ただ入ればいいといった、何かその場限りの刹那的なものの考え方をしていては、ゴルフの本質も知らなければ、壁につき当たってもすぐにこなごなになってしまうに違いない。
その見えない部分の努力や、力。それが空を飛ぶボールにきっと見えるはずである。よくキャリアという言葉が使われるが、そのキャリアという中に、そんなことが含まれているような気がする。
私は今でも、1番ティ・グラウンドにあがると足がふるえる思いがするのは変わらないが、少なくとも、その当時よりははるかによくなっているし、見た目には震えがわからないであろう。これもデパート通いのたまものだったのだろうか。
スライス病という大きな病をひっさげて、私は小学校を卒業した。そして、その春、明陵中学校に入学したのである。中学に入っても、土曜日の午後、そして日曜日とゴルフの時間は、変わらなかった。学校の成績は、相変わらず数学と体育は得意でなかった。しかし、年が経つにつれて、小さな身体に、わずかながらだんだんと子供から少年の輪郭が見えるようになって来たのは事実だった。
その頃である。私は、3人の人にスライスについて、もう一度徹底的に追求しようと思って話を聞きに行ったのであった。スライスについては、今までに、およそ8人の人に教えを乞いに行ったのだった。
