中部銀次郎

果てしなきスライスの悩み

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(1)

私は、凝り性だった。

しかし、私のそれは、熱し易く冷め易いというものだった。そんな私に、家では親心の“おしきせ”のけい古ごとを習わせた。ピアノ、バイオリン、トランペット……。でも、本来“おしきせ”のものは、自ら簡単に厭きて しまうもので、いくら誰がなんと言おうが“つまらない”と思ったら終わりである。

「ピアノに行ってきます」と家を出てはほかへ行って遊んでしまう。一歩家を出れば今と違って遊ぶものにことかかなかったのである。だからおしきせのけい古ごとなどに見向きもしないというのは当然だった。

ゴルフは、どうだったか。

これはもう、面白くて仕方がなかった。毎土、日曜日が来るのを指折り数えていたのである。興味があった。だから自然、意欲が湧く。面白い、うまくなりたい。これが私を上達させたのではないだろうか。

では、なぜ面白いと思ったのか。それは、いくらやっても厭きないのである。厭きっぽい私がゴルフだけはそうでなかった。今から思えば、興味と同時に、ゴルフというものが、自分のものになかなかできずらいものだったからである。すぐに“壁”にぶつかる。ひとつ壁を破ると休む間もなくまた次の新たな壁が私の前にどっかとそびえ立つ。こんなに手こずるものはなかった。

ハンディキャップが20になって、ちょっとゴルフが足踏みしたのは、スライスしか打てないということ、そしてイージー・ミスが出ることだった。イージー・ミスは、ダフリ、トップというミス・ショットのチェックでかなりの効果をあげた。これは翌週のラウンドに対しても、ひとつでも少なくしようという気持をもって、予習復習になった。

このひとつのバロメーターが、結果的に、かなり進歩を助長する原因になったことは確かである。

さて、スライス・ボールに対する悩みが問題だ。誰に聞いても直らなかった。「なす術はなし」と諦めて、ティ・グラウンドでは右側ぎりぎりに立って、アドレスは完全に左を向いて打つ。ボールは良くてフェアウェイ・センター、だいたいフェアウェイ右側や右側ラフだった。どんなショットでも同じだった。それでもなんとかスコアが100を切れたのはパットがよかったからだろうか。

スライスが出ていた原因は、大きくふたつあったと思う。

ひとつは体力的問題だ。中でもひ弱だった私の身体は、ボールをまっすぐ飛ばせるものではなかったのである。実際、小学校を過ぎて中学校の終わりから高校にかけて、体力がついたことでスライスの限度を柔らげたのである。その頃、やっとスライスらしいスライスが出るようになったのである。それまでの私は、スライスといっても、まだ到底スライス・ボールと言えるほどのものでなかったのである。

(2)

親父のゴルフは、さほどうまいものではなかった。よく、戸田藤一郎プロにその頃教わっていたらしいが、私はその親父のゴルフを“見て”覚えた。

それが間違いだった。何故なら、親父が戸田プロから教えられたことを、曲解して受けとめていたか、或いは、親父の伝達方法が違っていたのである。当時、戸田プロから教わったことは「前にあげてぐっと引け」だった。言わゆるアウトサイド・インである。しかし、小学生の私には、あわなかったし、理にかなった方法でもなかったのである。その言葉を忠実に守って、トップ・オブ・スウィングでは、グリップが頭より完全に前に出ていた。そこから引いてくるのだから、スライスが出てあたり前である。

このスウィングが、スライスしか出ない私のゴルフの2つ目の原因だった。

スタンスをクローズにしても無駄だった。グリップは、どうだろう。残念ながら、グリップが云々されたのは、もっと後のことだった。何故なら、その頃まで正確には、ベン・ホーガンの『近代ゴルフ』が出てくるまで、誰もがグリップに神経が集中していなかったのである。だからグリップに対する“講義”を私にしてくれる人は、誰一人といなかったのである。スライス――クローズド・スタンスにする。そんなことだけしかなく、そう観念づけられていた時代である。だから細かく“ここが悪い”などとチェックすることもなく、されることもなかったのだった。

また親父も実際には、スウィングなどゴルフに関して、はっきりと口で教えてくれたことは全くなかった。親父が私に教えてくれたのは、もっとほかのことだった。あとで書くが、親父から教わったのは“ゴルフィング”だった。でも、私は、親父が技術についてたくさん私に講義をするよりも、はるかに有益なものを学んだと思っている。それは現在まで、私の中にあるゴルフ論を確立させる第一歩のものであったし、そのほとんどが親父から教わったものであったのである。だから、もともと教え上手ではなかったのが、反面私には幸したのかも知れない。

ハーフを45、46ぐらいで回れたが、それを切るのに、まだ時間を要したのは、この大きなふたつの原因からだろう。私は、本を読み漁り、その中にある連続スウィングの写真を見ては、一生懸命に学んだ。まず、自分の頭にイメージ・アップさせて、なおかつ自分に合っているプロのスウィングを捜し、真似てもみた。

八方ふさがりになってしまったハンディ20時代。私に光明があったとすれば、「うまくなりたい」というひと一倍強い意欲だけだったかも知れない。それだけを頼りに、毎週末がやって来るのを楽しみにしていたのだった。もし、親父の伝達方法がもっと正しければ、或いは、もっと私のまわりにうまいコーチがいたら……でもそれは、どうなったかわからない。それでも何かを悩みながらの毎日だったろう。その後、ベン・ホーガンの『近代ゴルフ』が出て来て、グリップを私は直した。高校時代である。だが、グリップを直すだけでなんと2年間もかかったのである。