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世界アマチュア選手権に出場する数ヵ月前、私は名古屋愛知CCで行われた日本アマチュア選手権に初出場した。予選ラウンドを74、75の149でメダリストになって決勝に進出したのだった。7105ヤード、パー74のコースだから1オーバー・パーの成績で、18歳の“少年”がメダリストというのは、日本初の偉業だったという。
決勝トーナメントでのマッチ・プレーでは、3回戦で岡藤氏に敗れた。それでも《少年》が堂々戦ったということで一躍話題をまいたらしい。
だが、そんな頃、海の向こうのアメリカでは、とんでもない《出来事》が起きていたのだった。
1960年の全米オープンは、デンバーのチェリー・ヒルズ・カントリークラブで行なわれていた。そして、最終日、猛チャージを見せて難しいコースを65というスコアで回ってアーノルド・パーマーが逆転優勝したのだった。
そのことは別に、どうというわけでない。パーマーに次いで、2ストローク差で2位になった人間が問題なのだ。
当時、20歳。ボビー・ジョーンズの再来と言われたアマチュア、ジャック・ニクラウスがその人だったのである。
新聞だけで知っているニクラウスを、私は現実に世界アマで見て、ショックを大いに感じたのも、ボビー・ジョーンズと違って、現役の、しかも私と2歳しか年齢が離れていない巨体のニクラウスを、そのゴルフをまのあたりにしたからであろう。
ボビー・ジョーンズという名前は、私が小学校の頃に、親父から「ボビー・ジョーンズというアマチュアで世界一うまい人がいる」ということと、話の中や本の中で知っていた。そして、世界アマのときに、メリオンのコースで会った。そのときはジョーンズはすでに引退し、車椅子での生活を送っていた。私がジョーンズの姿を見て涙したのは、言わばゴルフ人生のゴールを極めた人というその事実と姿だったのだ。
しかし、ニクラウスは違っていた。目の前で信じられないようなゴルフを、ポンポンと見せつけられたのだ。これでもか、これでもかという風に……。
まず驚いたのは、その巨体である。それをまのあたりにしたとき、正直「かなわない」と脱帽し、敗戦を認めざるをえなかったことである。18歳の私は、身長が1メートル55センチ。体重が55キロ。いったいニクラウスは、どのくらいあったろうか。背は、1メートル80センチを軽くオーバーし、体重も凄かった。ニクラウスは“太っちょ”といわれ、オハイオの白熊と言われていたのである。
ロング・ホールでも私が一生懸命3オンを果たそうとしているのに、ニクラウスは、ドライバー、ロング・アイアンで軽く2オンさせてしまう。
そして通算11アンダーでトップの成績を出す。そのスケールの大きさを見て、かなわないと思うのが当り前であろう。
アメリカという国。その中のゴルフだけを取り沙汰してみても、その土壌の違いを、まざまざと見せつけられたのだった。何もかも違う。ニクラウスをはじめとして、ディーン・ビーマン、そしてほかのアマチュア・ゴルファーたちも、その精神もゴルフも、大きなスケールでホンモノを持っているな、という匂いがぷんぷんしたのだった。
(2)
そんな、私の《トリプル・ショック》からの後遺症は、逆に、日本に戻ってから意外に早く取り除くことができたのである。
よく《井の中の蛙……》という言葉がある。私は、素直に《井の中》におさまらざるをえないような気持ちだった。
ニクラウスは、その翌年。1961年の秋にプロに転向した。アマチュアとして獲るべきタイトルをすべて手中にして、まず第一の《ゴール》に辿りついたのであろうか。いや、私には、はっきり何故プロ転向したか今でもわからない。お金? それだけではないだろう。それは、それから12年後、ニクラウス来日の際に、テレビ撮影のために、横浜カントリーで一緒にプレーした、そのときの印象では、あ、いまだにニクラウスは、アマチュア精神をもったままでいる。と感じたからだ。プロになって、数々のタイトルもとり、財産もある、そのニクラウスを見て、全くそう感じられたのである。だが、何故プロ転向したかという本当の理由については、彼自身の口から、はっきりと聞いてみたい気持ちは、ある。
プロ転向して、翌62年からツアーに参加したニクラウスが、その年の全米オープンで、プロ転向初勝利をあげたのである。こんなところにも、ニクラウスの大きさがうかがわれた。
何もかも土壌が違うということについては、またあとで触れるが、そんな大海をまのあたりに見て、その中で体験し、自分のみじめさを知って、井の中、つまり日本の中に帰らざるをえなかった。
“日本一になることだ”
後遺症とは別に、そんな気持が新たに私の胸に湧いてきたのであった。
私には、やらなければならないことがまだまだ数限りなくあった。その春、下関西高を卒業して、慶応大学を受験したが、それに失敗した。浪人生活を送っていた。来年のための受験勉強のために当分のあいだ、クラブをエンピツにもちかえなければならなかったし、ゴルフひとつにしても、まだ満足なんて言えるしろものでもなかった。ハンディキャップ1ではあったものの1からゼロにして、早くスクラッチ・プレーヤーにもなりたかった。これは、数字的に1からゼロにするほど簡単なものではなかった。その1からゼロのあいだには、底知れぬものがあった。
これまでの18年間。少なくともクラブを始めて握った小学校4年生からのゴルフの道のり。この1960年、第2回世界アマチュア選手権に参加して、ボビー・ジョーンズ、ジャック・ニクラウス、そしてコースやアメリカという国、そんな“大海”を見たことによって、ひとつの大きなターニング・ポイントとなって、またゴルフに対する執拗なまでの執念も湧いて来たのだった。
ゴルフという限りなく広大なスケールのスポーツ、このスポーツに一生私が取り組むようになったそもそものきっかけは、私が小学校4年生の頃、とても病弱で週に1、2回胃ケイレンのように鋭い痛みを覚えたのがきっかけであったのだった――。
