特別寄稿 中部銀次郎のライフインパクト〜1977年
中部銀次郎・最後の日本アマチュア選手権
設計家 中部銀次郎の顔
ゴルファー模様
「中部銀次郎を伝承する」対談・湯原信光・中部隆・司会・三田村昌鳳
中部銀次郎とジャック・ニクラウス
ボビー・ジョーンズと中部銀次郎
門司ゴルフ倶楽部 中部銀次郎の感傷旅行
中部銀次郎さんを偲ぶ
新橋にある中部銀次郎さんの馴染みの店『独楽』で、久しぶりにふたりで飲んだある日のことだった。
「いま思えば、僕は中部さんに月謝を払って貰いながら勉強させてもらったようなものですね(笑い)」と、ふと昔話をしたことがある。
「うん」
「結構、貢いで頂きまして(笑い)。高かったでしょうね?」
僕は、どこかで怯えながら余計なことを言ってしまったと思った。
「うん。君にはね。1年間で800万使ったかな」
「うそ!」
僕は、絶句したまま話題を変えた。
……ちょうど僕がゴルフ雑誌の記者をしていた20代前半。
1973年のころだった。
中部さんがアマチュア競技に復帰するというので、六本木の『ロジェ』というステーキハウスでインタビューをした。それが僕と中部さんとの初めての出逢いだった。日本のトップアマ。日本オープンを何回も獲っている人……。その程度の知識しかなかった。日本ゴルフ協会ともめて試合に出なくなってから復帰するということで取材したのがきっかけだった。
このインタビュー記事がきっかけで僕は、中部さんに興味を持ち、連載を始めたいと申し出た。
「売れないよ、僕のこと書いても」
「売れなくてもいいんです。書きたいんです」
そんな押し問答の末、
「じゃあ、こうしよう。僕は、君のことを知らない。君は僕のことを知らない。知らない者同士が話し、書いてもいいものは書けない。しばらく飲もうや」
「しばらくって?」
「解らないけど、1年ぐらい」
「えー」
僕は、下戸だった。ビールでコップ1杯飲めない。それでも中部さんとは、2日あけずに会った。夕方、カウンターバーで落ち合い。それからハシゴである。最低で3件。4、5件は驚くことじゃなかった。「じゃあ、帰ります」と酔った中部さんに告げる言葉が、夜明け前になることは、しばしばだった。それが、一年も二年、三年もとも続いた。
「中部銀次郎 ライフインパクト」という連載は、
それから3ヶ月後にスタートした。確か1976年頃だったと思う。
ちょうど7つ違いの兄貴と出逢ったみたいで、僕は、言いたい放題言っては、ひたすら吸収することしか頭になかった。必死に書いただけで、いま読み返すと意味不明だったり、言葉足らずな稚拙な文章だった。
僕は、解らない、納得がいかないと中部さんに駄々をこねるように、なんで? 何故? を繰り返した。ある時は、元プロ野球選手の稲尾和久さんと引き合わせてもらい。
「サイちゃん。こいつに教えてあげてよ」と言い、それでも納得のいかない僕を見かねて、その稲尾さんが当時巨人軍の王貞治さんのところに3人で行った思い出がある。
六本木のバーにいた王さんに、稲尾さんが口をきいてくれて「ワンちゃん。この子が聞きたいことがあるっていうんだけど、答えてあげてくれる?」
そういって僕は、王さんにまで質問を浴びせた記憶がある。
ジャック・ニクラスとの対談も企画したことがあった。そのときは、肉体と精神を年齢とともにどう維持していくかの話題で盛り上がった。
……僕が独立して小さなオフィスを開いたある日。中部さんから電話があった。ちょうど僕が海外取材から帰国する日だった。机には、何度も電話がかかってきたというメモが残されていた。
僕は、疲れ果ててオフィスに戻ってそのメモを見た。するとまた電話がかかってきた。
「お前、いまからこれないか?」
「今日は勘弁してください」
「どうしてもダメか?」
「はい。どうしたんですか?」
「ノブが、プロになるっていうんだよ。俺ひとりじゃ、もう止められないんだよ」
僕は、きっと僕が行っても湯原信光の心は変わらないと思っていた。それだけ強い意志で中部さんに言ったのだと……。僕は「ごめんなさい。今日は無理です」と断った。後に、中部さんが酔うと、しばらく「お前があのとき来なかったから、ノブは……」と言っていた。湯原信光も、僕と同じに、中部さんの弟分だった。
この間、本棚を整理していたら当時のメモが、古い資料箱から出てきた。分厚い中部さんの取材メモだ。
そこには小学校時代からの中部さんがいた。実家の部屋の間取りや家の場所まで描かれていた。そこには中部さんのゴルフが詰まっていた。
僕は、貴重な体験と取材を、20代でしたのである。
僕は、おそらく中部さんの弟子、という意味では、いちばんどうしようもない弟子だったに違いない。僕がゴルフをあまりしないので、わざわざ電話をかけてくれることもしばしばあった。
「お前、何してるの?」
「オフィスで仕事してます」
「いま、芝ゴルフにいるんだ。こないか?」
そういって、でかけると、打席に座っていた。
「お前、打てよ」
「えー、打つんですか? いいですよ、僕は……」
「いいから、打てよ」
僕は、クラブを手にして、アドレスする。そして硬直してしまうのだ。
そんな僕を見て、アドレスについて教えてくれる。
僕は、少しボールを打つと、すぐにやめてしまう。
ある日、やはり酒を飲んでいるときに、中部さんが、言った。
「三田村、ゴルフやれよ、もっと……」
「うーん。じゃあ、やりますか? 一緒に行きましょうか?」
「おお、行こうぜ」
僕と中部さん。そして当時ブリヂストンスポーツにいた田中徳市と、やはり当時デサントにいた五十嵐と4人で、太平洋御殿場コースに行くことにした。
朝、僕と田中が、原宿の中部さんのマンションに出迎えに行った。
中部さんは、無口だった。酒が入らないとほとんど喋らない。でもその日は、そういう風ではなく、ボーっと車の窓から風景を眺めていた。
コースに着いて、中部さんはいつものように颯爽とフロントでサインをして着替える。レストランで朝食をとり終えてコーヒーを飲んでいると、
「3球だけボールを打ちに行っていいか?」
「練習場で、3球ですか?」
「うん」
3球打って「解った。さぁ、スタートしよう」と言って、1番ホールに行った。
「チーム戦しましょう」
田中が明るい声で言った。田中、五十嵐は大学のゴルフ部出身だった。
「じゃあ、僕と三田村が組んで、田中と五十嵐が組め」
僕は、逡巡した。どうみても中部さんの足手まといになる。彼らのハンディキャップを足しても、15前後だ。僕は、36。中部さんは、0。最初から勝てる見込みがないからだった。
そのとき、コースに出たのは、10回以下の時代だった。
「勝てませんよ。どうあがいても……」
「やってみなければわからないだろ。三田村、ダボがパーだと思ってゲームすればいいんだよ」
僕は、中部さんに言われるままにプレーした。ダブルボギーが目標だった。
前半、僕は、50。中部さんは、2アンダー。トータル84。彼らのスコアは、トータルで86だったと思う。前半、僕たちが勝った。
問題は、後半だった。
昼食をとっているときに、田中がとんでもないことを言い出したのが、きっかけで僕は、未知の体験をすることになった。
「後半は、フルバックからやりましょう」
田中が、そう言った。どうやらレギュラーティからでは、勝てないという目算だった。僕は、一瞬、戸惑った。一度もフルバックからの経験がなかったからだ。
「嫌だよ」と僕は、固辞した。冗談じゃない。彼らはゴルフ部出身の飛ばし屋で、フルバック未経験の僕は、おそらくスコアを乱してペアを組んでいる中部さんの脚を引っ張るに違いない。
「やめようよ」と僕が懇願するも空しく、フルバックからスタートしたのである。
僕は、散々だった。スコアにならないかったのである。ティグランドでアドレスすると左右の木々が立ち並んでいる。それがトンネルのように迫って見えて、うまくアドレスもできない有様だった。
後半は、完敗だった。中部さんが、再び34で回っても、僕の大叩きを加算すると彼らのスコアに及ばなかった。
クラブハウスに戻って、中部さんは
「あー、よかった」
と呟いた。
「どうしたんですか?」
「いや、ちょっと風邪気味で熱があって、最後まで回れないかと心配だったんだよ」
「風邪だったんですか?」
僕は、いつもと変わらない中部さんを見ていて、そう思わなかった。しかも、風邪を引いているということをひと言も言わなかった。
「だから、心配で、スタート前に3球ボールを打ったんだよ」
「なんで3球なんですか?」
「1球は、自分の体がスイングできる状態かどうかのチェック。2球目は、どういう球筋になるかのチェック。3球目は、再確認。それで、その日の球筋を知っておけばいいから……」
「……」僕は、何も言えなかった。
「そんなことよりも、お前、なんで午後のスタートの時に、あんなに抵抗したの? フルバックだってレギュラーティだって同じじゃないか。たかだか30ヤード違うだけだろ。いまのお前の実力なら、30ヤードの違いで大きく変わるものはないんだよ。……あの時、心から抵抗しないで、素直に受け入れれば、あんなにスコアは乱れないで、俺たちは勝てたんだよ」
話が、弾んだ。
「銀さん。こういうゴルフ、面白いですね。またやりましょうよ」
「そうか」
「ええ。定期的にやりましょうか?」
「いいなぁ。やろう」
「じゃあ、銀さん中心だから、シルバークラブにしよう。仲間を集めますよ」
「それもいいな。じゃあ、トロフィは俺に任せろ」
シルバークラブという中部銀次郎さんを中心にしたコンペが生まれたのは、この時だった。中部さんは、シルバークラブのためにトロフィを、僕たちは、仲間を集めた。しばらくすると「トロフィが手に入ったぞ」と電話があった。中部さんは、シルバークラブ用のトロフィを手に入れるために、クラブ選手権に出場し、見事に優勝してトロフィを手にした。それを寄付してくれたのである。
僕は、中部さんから、さまざまなことを教わった。中部さんを通して、ゴルフというゲームの奥深さと幅広さを学んだ。
生涯をアマチュアゴルファーとして生きた人……中部銀次郎さん。銀さんが、僕になにがしかの期待を抱いてくれたことがあるとすれば、それはゴルフの心を、ひとりでも多くのゴルファーに伝える役目だと思う。
僕は、その役割りをこれからも続けていきたいと思っている。
三田村昌鳳 ……ゴルフスタイル創刊号掲載2002・2