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アメリカ深南部の片田舎にあるオーガスタ。
この小さな町で1934年から開かれている
マスター・トーナメントは選手も観客も
限られたものだけが参加できる権威ある大会である。
そして、ここオーガスタの風景こそ、アメリカそのものだった。
18番ホールで最後のパッティングをし終えたベン・クレンショーが、そのまま両手を膝にあてて頭を垂れた。泣き崩れるようだった。いままで何度も優勝の瞬間を見たけれど、このマスターズで、うずくまるようなシーンを見たのは初めてだった。大胆なガッツポーズや天を仰いで両手を広げたりするシーンがほとんどだった。
「僕のゴルフバッグには15本目のクラブが入っていた。それは恩師であるハーヴィー・ペニックだった。彼がいつも僕の肩にいて、支えていてくれる感じだった。運命? 運命かもしれない。このトーナメントで、誰もが勝ちたいと思っている。そして誰にも勝てるチャンスがあるんだ。この1週間、その中で1人しか優勝できない。それは運命なんだ。みんな何かを背負ってやってきて、今回は僕とハーヴィ・ペニックに、勝たせてくれる運命だったということなんだ」
クレンショーのゴルフのティーチングプロであるハーヴィ・ペニックが90歳でこの世を去ったのは、大会が始まる直前だった。クレンショーにその知らせが届いたのは、日曜日の夜にオーガスタのクラブハウスで夕食をとっていたときだった。やはりペニックの生徒だったトム・カイトから「夕方5時半に亡くなった」と連絡が入ったのだ。2人は水曜日の葬儀に列席することにした。早朝オーガスタを発ってテキサスに行き夕方には再びオーガスタに戻ってきたのである。
「この1週間、何かすごく強いフィーリングを感じていた。特に最終日の最後の数ホールのパッティングでは冷静にラインが見えて、それに対して僕がただストロークすればいいという感じだった」
奇しくも2位になったのは、やっぱりペニックとゆかりの深いデヴィス・ラブV世だった。彼は米ツアーでもロングヒッターで有名である。
15番ホール、500ヤード、パー5では、ラブが第2打を9番アイアン、クレンショーは4番ウッドだった。飛距離の差がそれほどあったのだ。クレンショーはむしろ絶妙なパッティングが高い評価を受けている。
ペニックの記したグリーンブック(グリーン色のカバーのメモ帳でレッスンしたときのことなどを徒然につづったもの)が1冊の本になっている。(『ハーヴィ・ペニックのゴルフグリーンブック』菊谷匡祐訳、集英社刊)そこから<ベンを擁護する>を引用させてもらう。
「…ドライバーが下手でボールをいつもラフに打ちこみ、奇跡的なパッティングで助けられているなどと、テレビのコメンテーターがベン・クレンショーについて言ったりするのを耳にすると、私は不愉快になってくる。
それは私がベンを自分の息子のように愛しているゆえではない。
確かにベンは、ホートン・スミスと並ぶ、史上最高のパッティングの名手だ。…トーナメントでかりにデヴィス・ラブV世、フレッド・カプルスと組ませたら、ベンが2人よりもフェアウェイをキープすることに私は5ドル賭けるだろう」
ペニックは、このマスターズで、世界中のみんなから5ドルを築き上げたことになる。
1974年4月…。
僕は、初めてオーガスタを訪れた。
鉄分をいっぱい含んだ赤い大地が、一瞬、目の前に広がった。
すると蛇行する大きな川の姿に変わって、それが互いに見え隠れしながら、飛行機は飛んでいた。その川も決して清流ではなく赤土の混じった濁流だった。その景色に、今度は緑の木々が生い茂る森に加わった。深い緑色の樹木は、てっぺんが尖っていて輝き、奥の暗い地面とのコントラストが強く、高くそびえ立っていることがうかがい知れた。
「アガスタアァ」と、ガの部分に強いアクセントをつけた発音で、スチュワーデスがアナウンスした。それは<オーガスタに間もなく着くのだろう>と推測させた。
「フー」と僕の横でため息をついたのは、ジャンボ尾崎だった。
つられて僕も大きく深呼吸して、シートベルトを締め直した。
思えば、とんでもなく遠いところまで来てしまったな、という気持ちが先だった。
僕は、ジャンボ尾崎を追って、東京から米国西海岸のサンフランシスコに渡り、深夜便で一気にアメリカを横断してノースカロライナ州グリーンズボロまで辿りついて、そこのトーナメントでジャンボをつかまえた。その試合でジャンボは、予選落ちして予定より2日早くオーガスタに行くことになり、僕も、同行することにした。途中、サウスカロライナのシャーロットで飛行機を乗り換えた。そこの空港レストランのことを、僕は思い起こした。
僕達が席に座って軽食を取ろうとメニューを見て、注文しようと、何度もウェイトレスを呼んでもなかなかやってこなかった。そして20分ほどしてようやくやってきたウェイトレスは、黒人だった。さして混んでもいないのに、とぼくは腹立たしかった。
このあたりは、かつてはコットンフィールドで黒人たちが綿摘みをして働いていた。南北戦争を長く引きずっていた深南部の田舎町である。あとで知ったのだが、オーガスタはサウスカロライナとジョージアが蛇行するサバンナの川に沿って区切られている州境に位置していたのだ。
アガスタ空港は、まるでプライベート空港のように小さく、タラップを降りて100メートルも歩かないうちに、ふかふかした芝生になり、そこにパラソルのついた白いテーブルと椅子があった。それは大きな屋敷の中庭にそのまま飛行機を横付けした気分にさせてくれる。
「よぉ着いたな」
「どうも」
こぢんまりしたターミナルでジャンボを迎えにきていたのは青木功だった。
青木はこのときが初出場で、2日ほど前に東京から直接ここにきていた。
2人とも、一軒家を借りていた。
コース周辺にはホテルがほとんどないこの町は、期間中だけ選手や関係者に民家をそのままレンタルしてくれる仕組みになっている。ベッドもタオルも冷蔵庫もキッチンも、すべて自由に使える。引き出しを開けようと思えば、いくらでも私生活が見えてしまう無防備さ、他人に家を明け渡すというその心理は、僕には理解できなかった。
マスターズという大会がそれだけ信頼感を繋ぐイベントなのか、あるいはアメリカ人の気質なのだろうか。その1週間、住人は1週間のレンタル料をあてにして家族旅行にでかけたり親戚の家に居候するのだ。尾崎は月曜日から借りる契約になっていたので、土曜日はまだ住人がいて明け渡す準備ができていなかった。「とりあえずうちに来たら」と青木が言い出して、僕たちは青木の借りている家に向かった。尾崎の寝室は子供部屋で、小さなベッドに体を丸めるようにして眠らざるを得なかった。僕はソファで寝込んだ。初めてみるオーガスタのコースは美しくて、とても眩しく輝いていた。
1995年…。
飛行機の中でニューヨークタイムズのスポーツ欄を眺めていた。
大会がはじまる前の日曜日版だった。
マスターズに関する記事が2本掲載されていた。
大きく扱われていたのは、アーニー・エルスだった。
彼の運動能力、運動神経はゴルフ以外のスポーツをやらせても一流レベルに到達している。これまでのプロゴルファーは、ともするとアスリートとしての能力はさほど必要ではなかった。むしろ優れたテクニックやメンタル面と経験則が重要視されていた。けれども21世紀のプロゴルファーは、エルスのようなアスレチックな能力が必要とされるという内容だった。
「プロ野球で1位にドラフト指名されるような運動能力を持った選手がプロゴルフ界にどんどん出てこないと、世界では通用しない。そういう時代がきてようやく世界のゴルフ界のスタートラインにつける時代になる」
と、尾崎が言っていたのを思い出した。
その記事の下にもう1つ小さくマスターズ関連の記事が載っていた。
1枚15ドルの練習日のギャラリー券が1枚350ドルまで跳ねあがっているという記事だった。年々増え続ける練習日のギャラリー。昨年は、1日6万人が入っていた。それを予約前売りにして、しかも2万5000人に絞ったのだ。6万人はあまりに多すぎてコントロールしきれない。ゴルフは静と動のメリハリでゲームが争われるもので、観客もその空気に溶け込んでいなければならない。6万人は、その空気の範囲を超えるというのが主催者の考えである。そのため、それは確実にプラチナペーパーになる。
もともとマスターズも、1934年開催当初からしばらくの間、ギャラリーは少なかった。従って、つてを頼ってまとめ買いしてもらった時期もあった。試合のチケットは、4日間通しのシーズンチケットしか発売していない。これもリストによって毎年同じ人に打診することからはじまる。もし購入しないとなれば、ウェイティングリストの順番に沿って申し込み用紙を送る。いまでは、ウェイテイングリストも3万人ほどいるという。
4日間通しのチケットしか発売していないのは、18ホールの区切りではなく、起承転結の72ホールを見て、はじめてゴルフトーナメントが成立するという哲学だからだろうか。もちろん、これも限定だから、ダフ屋の末端価格が3000ドルまで上がった時期がある。
この21年間でオーガスタは、ほとんど変わっていない。
空港からボビー・ジョーンズ、ハイウェイがI20に接続して、オーガスタナショナル・ゴルフコースまでダウンタウンやスラム街を通らなくても済むようになったこと、コース周辺にモーテルやインがどっと増えて、賑やかになったことぐらいだろうか。コースは毎年少しずつ改造されているが、それは極端にコースのデザイン思想を変えてしまうほどではない。
すべてが、昔どおりにマスターズという伝統と権威を、そして個性を際立たせている。ボランティアは、3000人を超えるという。彼ら彼女らの中には、両親から受け継いで同じ場所で同じ仕事についているボランティアも多い。
プレスルームのガードマンもこの20年近く替わっていない。
太っちょのおじさんだ。この人は全米オープンでもプレスルース担当をしている。
一度、朝食を一緒に食べて、身の上話を聞いた仲である。「やあ、どうも。元気?ゴルフの調子はどう?」と挨拶するほどの顔見知りにもかかわらず胸元のバッジをしっかり確認する。見えないと、プレスビルに入れてくれない。杓子定規でもなく、ナアナアでもないほどよさが、このガードマンやボランティアの態度によく表れている。
ふと、僕はマスターズという大会が、米国深南部のオーガスタではなく、例えば、ロサンゼルスやニューヨークなどの都会に近い場所で開催されていたら、と想像してしまう。
きっと典型的なアメリカの白人社会のソサエティを感じさせるような大会に育っていなかっただろうと思う。ゴルフトーナメントが、地域社会と密着して、その土地の風土、環境、習慣に染まって育っていく自然発生的なものがあるとしたら、マスターズはやはりオーガスタでなければいけない。
オーガスタのクラブハウスの前に、ちょうど1番ホールのティグラウンド、9番ホールのグリーン、練習グリーン、そして18番ホールのグリーンと10番ホールのティグラウンドが見渡せるガーデンテラスがある。その芝生の上には緑と白が交互になったパラソルつきの白いテーブルと椅子がたくさん並べてあって、飲み物と軽食がとれる。そのガーデンテラスとハウス内のトロフィールームと呼ばれるレストランは、さまざまなゴルフ関係者で賑わっている。マネージメント会社やメーカーの人間は、年間の契約などのビジネスで忙しいし、最近ではかなり多くのティーチングプロが走りまわっている。
自分がコーチしている選手がこれで優勝すれば、自分の評価も高くなる。
デビッド・レッドベターがいい例だ。
ファイルド、プライス、エルス…メジャー優勝は選手を潤すだけでなく、ティーチングプロの生活まで豹変させる。
そのひとりでフィル・ミケルソンのティーチングプロをしているディーン・ラインマスと毎日、コーヒーブレイクをとった。もちろん選手がスタートしてからのひとときである。
僕が必ず彼に訊いたのは、毎朝、ミケルソンにどういうアドバイスをしたかだった。
「月、火、水曜の練習日には、スイングアークをソフトにして、自分のリズム、スピードをつかみながらラウンドしなさいとアドバイスした。そのコースに呑まれることなく、いつも自分のリズムを呼び起こすことがまず大切だからね」と彼が言った。
特に、試合前日の水曜日は「パッティングのタッチとマインドのアドバイスを付け加えた」という。そして、いよいよ初日になると、コースマネジメントに集中させるため、「済んでしまった1打を忘れ、次の1打も忘れて、いま目の前にある1打にいかに集中するかということ」をアドバイスしたという。最終日、ミケルソンは優勝争いの渦の中にいた。
「興奮するだけじゃけない。一喜一憂ばかりすると自分自身を見失う。君の敵は、めまぐるしく変化するリーダーボードじゃいけないんだ。微動だにしないコースなんだ」
そしてキャディにも、そっとアドバイスを忘れない。「アドレナリン効果がでてくると距離が伸びるから1番手小さなクラブを持たせろ」
残念ながらミケルソンは7番ホールでダブルボギーを叩いて、ゲームの流れを見失った。最後まで踏ん張ったのだが、7位に終わった。
ティーチングプロが、単に技術だけをコーチするのではなく、心理面にも及んでいるのは、いうまでもない。それは日本では存在しないプロの仕事である。
スポーツイラストレイテッド誌のゴルフ担当記者が、ぴったりとタイガー・ウッズにはりついていた。彼は、一昨年、ニューヨークタイムズからスポイラに転職した優秀な記者である。もうひとり入社2年目の若い記者は、ジャンボ尾崎を追っかけていた。
タイガー・ウッズは、19歳のアマチュアゴルファーである。ジュニア時代に数々のタイトルを獲って、スタンフォード大学のフレッシュマンになったばかりだった。
「このコースは、ドライバー勝負でなくセカンドショットゲームのコース」というけれど、彼のドライバーの飛距離はずば抜けている。ジャンボと一緒に回った3日目は、すべてウッズのボールが先に飛んでいた。
観客もマスコミも、ウッズに対する注目度は高かった。このところヨーロッパ選手に押され気味でアメリカのファンたちは、欲求不満だった。そこのウッズが出現したわけだ。
観客に混じってウッズのプレーを見ていたら、後ろからギャラリーの声が聞えてきた。
「あれだよ、彼がタイガー・ウッズさ。あの若者は、黒人、中国系、アジア系、それにネイティブ・アメリカンの血を引いてるんだぞ」
とひとりのギャラリーが喋っていると、隣の男がこういった。
「それがアメリカ(人)じゃないか。まさに彼は、アメリカそのものじゃないか」
マスターズが黒人のプロゴルファーを初めて受け入れたのは、1978年のリー・エルダーであった。20年近くが過ぎて、アメリカも、マスターズも少しずつ変わってきている。
最初は、オーガスタのコースの美しさは眩しくて仕方がなかった。そのうち眩しさに慣れてきて、その光と影が織り成すマスターズを見ていると、1930年からのアメリカそのものという感じがした。マスターズというイベントが、よくも悪くも、スノッブな白人社会のお祭りという感じがした。
1990年代になって、いつのまにかそれは、すべてを呑みこむアメリカそのものを象徴するイベントとして巨大な立体となって浮かんで見えてきた。
「日本選手がマスターズに勝つには、そうとう時間がかかる」
僕はふと、そういって寂しそうな顔をしたジャンボの言葉を思い出していた。
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©三田村昌鳳 |
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