|||||||||| 月刊・文芸春秋 1990年 3月号 ||||||||||
樋口・岡本・小林――三代の米国体験
“ドサ回り”に涙した樋口、賞金王も奪った岡本。
’90年代の小林は……。
日本の女子プロゴルフ界の三代の『女王』は、全く違った笑い方をする。
それは、彼女たちの性格とゴルフはもとより、
彼女たちが背負う時代背景と無関係ではない。
三人の笑顔は、微妙に世代を表現しているように見てならない。

記者たちはよく小林浩美に質問する。
「これで岡本(綾子)と肩を並べたね」
すると彼女は、
「イッヒッヒヒッ」と急に笑いだす。

無垢で飾り気のない笑い方である。
不自然でなく、むしろ試合後の殺伐とした
プレス・インタビューの雰囲気を明るくしてしまうのだ。
それは、文字で表せば、
「キャッキャッキャ」と「イッヒッヒヒッ」のあいだといえるのだろうか。屈託のない笑いが、なみいるベテランのゴルフ記者たちを前に、いつも実に効果的に発せられるのである。岡本と肩を並べられたかどうかの答はいつも出さずじまいに終わる。

この持って生まれた気取りのない笑い声が、ゴルフ・マスコミの記者たちに好感を持たれている原因のひとつで、その笑いと記者に対する処し方が、小林浩美と岡本綾子とでは明らかに違う。

岡本は、むしろ記者の質問をいちど飲み込んで頭の中でいくつか自分の言葉を浮かべ、それからひとつをチョイスして答えていくタイプだ。
だから一瞬の沈黙が先にきて、それから言葉に変わる。
滅多に気取りのない笑いは見せない。
そういう笑いは、心を許せる記者に限ってしまうことが多い。
従って、そうでない記者とはコミュニケーションもうまくとれず、
岡本の好感度に対する評価が大きくふたつに分かれてしまう結果になる。また、一瞬の沈黙が、優柔不断な性格に映ってしまうこともある。その昔、樋口久子から「ふにゃ」というニックネームをもらってしまったのは、そのためだろう。

その樋口が、プレスルームにやってくると、急に緊張感が漂う。特に、彼女に全盛期といわれた一九七〇年代は、メモを持つ記者たちの人垣は、彼女を中心に必ず三メートルほどの間隔ができた。
とにかく近づきがたい女という印象だった。
プレス・インタビューでも「イエス」「ノー」が明解で、なおかつ少し間の抜けた質問を始めると、
「いったい何が聞きたいんですか」と切れのいい、威圧的な、言葉が返ってきた。
それには、あの大きな瞳が威力を発揮していた。
だから樋口の笑いに記者たちが無防備でつられるわけにはいかなかった。記者と彼女の間隔が、歴然と見えないバリアで区切られてしまうな何かがあったのだ。
「いつも勝って当たり前という風に見られていましたから、
普段の生活でも、練習するときでも、
そういう義務感のようなものを感じていましたね。
ふーっと息をつく余裕もなかったんですよ」

いま思えば、その緊張感は、日本の女子プロ界を牽引する『女王』の貫禄ではなく、むしろそういう立場の樋口には、うまく記者と渡り合える余裕がなかったからなのだろう。

              *

初めて乗った飛行機で、ぼくはとんでもない経験をしている。十八年前のことだ。ふたつの理由で、おそらく忘れることができない経験をしたと思う。
ぼくにとっても、そして樋口久子にとっても……。


●突破した樋口のバリア


一九七二年の夏の終わりだった。
兵庫県の有馬温泉近くのゴルフ場で大会があり、
ぼくはその帰路で彼女にインタビューすることになっていた。

内容は「婚約・結婚」の話だった。
樋口が結婚するのではないか、という情報の真偽を確かめ、芸能的ま記事仕立てで紙面を構成する目的だった。「主婦と選手の両立」という問題に、回答を出した女子プロはいなかった。 
主婦と選手との両立」という問題に、解答を出した女子プロ選手はトーナメント出場選手は、独身者ばかりだった。当時の女子プロゴルファーの数は、総勢で七十七名しかいなかった。「結婚問題」は、女子プロ全体としても未体験部分だった。
ましてや女王・樋口久子の結婚である。興味は大きかった。ゴルフ誌がそこまでプライベートな部分に立ち入る記事をつくるのは、おそらく初めてのことだった。
バリアの中に入り込んでほじくらなくてはならい話題だ。
不安の中で、組まれて初めて飛行機に乗ったのは、そのためだった。 
彼女の横の座席になんとか座らせてもらってぼくは、樋口のバリアとまず格闘した。大阪から東京まで、持ち時間は正味三十分だ。

「いつごろ知り合ったんですか?」
「…………」
「第一印象は?」
「…………」
「ゴルフと結婚生活の両立は大変だと思うんですが」
「……。そうですかぁ?」

この繰り返しだった。
質問も確かに下手だったけれど、実はふたりとも、こんな場合にインタビューどころではないという心境だったのである。
さっきから飛行機が大揺れなのだ。
メモをとろうにも、ぼくの両手はしっかりと椅子の肘かけをつかんで離れようとしない。

ぼくたちの乗った飛行機は、あいにく台風の影響で、着陸体勢にはいって、一度は、確かに滑走路が窓から見えかかるまで降りたが、うまくいかずにエンジンを全開して、機首を上にあげ体勢を立て直したのだった。

もう「あのう……」と聞いている余裕もなかったのである。
上空でしばらく旋回したあと、無事飛行機は着陸に成功した。拍手が沸き上がった。ほっとしたぼくに「よかったね」と樋口が、握手してきた。
ぼくは、お互いに汗ばんだ手を握り合ったとき、近づきがたい彼女の威圧感が解けたような気がした。それ以来、ぼくは飛行機が揺れて不安が募ると、必ず史上最低のインタビューと樋口のことを思い浮かべるようになってしまった。


●全米ゴルフ“ドサ回り”


一九七七年の七月のことである。
「あら、三田村さん。どこにいるの?」
電話の向こうで樋口の弾んだ声がした。
僕は、そのときフィラデルフィアにいた。
ジーン・サラゼンの取材できていた。
その日がインタビューで、東京からニューヨーク、そしてここまで一気に乗り継いで、一回目の取材が終わり、ようやくベッドの上に重たい体を横たえたところだった。
せっかくアメリカに来たんだから、樋口に挨拶だけでもしようと思って、樋口に電話を入れたのだ。 
彼女は、アルコールはだめなのに、珍しく夕食の時にワインを少し飲んだらしい。
「いらっしゃいよ。モントリオールだから、そこからすぐよ」
明るい声だった。 
電話を切って、飛行機を予約した。

実はその数週間前、樋口は全米女子プロ選手権に優勝していた。

それは一九七〇年、樋口が佐々木マサ子らとともに初めて米女子ツアーに挑戦して以来八年目の出来事であり、もちろん日本人として初の米国ツアー優勝であった。
しかも、メジャータイトルで四日間、一イーグル、十七バーディ、八ボギー、一ダブルボギー、通算九アンダーで回っての優勝だった。

彼女たちが、初めて渡米した一九七〇年といえば、ニクソンのウォーターゲート事件をワシントン・ポスト紙の記者が暴露する二年前で、ドルショックの一年前。
一ドルが三〇八円になろうとする直前だった。
六〇年代から引きずっているベトナム戦争の後遺症もあったし、赤軍派による「よど号ハイジャック事件」、かと思えば、大阪で万博が開かれたり、三島由起夫の割腹自殺も一九七〇年の秋の終わりのことだった。

僕の初任給が確か三万円ちょっとで、
その頃四谷三丁目にアパートを借りていた。
十一月二十五日は、徹夜明けの目を擦りながら四谷駅に向かっていた。あの三島事件をす通りしてしまったぼくは、何か無性にせつなく、その気持ちを紛らわすために、がむしゃらに仕事に打ち込んでみようと思ったのを覚えている。

樋口は、ちょうど二十五歳だった。
旅の途中、アメリカの閑散としたうら淋しい町のモーテルに泊まっては、サンドウェッジを一本抱いて寝るという。
米ツアーをひとまず終えて戻って来たばかりのころだった。
「日本で試合をしたくても、年間五〜六試合ぐらいしかなかったんですよ」

確かに、一九七〇年の記録を見ると樋口は、日本で五試合に出場し一二一万円余りを稼いで賞金ランク一位になっている。二位は、岡田美智子で五〇万円(六試合)ほどだった。
日本の女子プロゴルフの歴史は浅い。
一九六七年秋に初めての女子プロテストが行われるまで、自分たちで定期的に研修会を開いていただけで、組織も曖昧だった。いってみれば、ゴルフ場や練習場で働く女子従業員が集まってコンペをやるという程度だった。

樋口は、二階堂高校の陸上部にいてハードルの選手だった。
ゴルフは、彼女のお姉さんの影響ではじめた。もうとっくに無くなってしまったけれど、瀬田の砧ゴルフに勤めて覚えた。
そこで中村寅吉プロを師匠に持つことになる。

第一回のプロテストは全員合格だった。
二十六名。
それに、それまで研修会にでていた二十五名が女子プロとして認知された。
総勢五十一名。
テストを受けた樋口は、この一期生になる。

翌一九六八に初めて日本女子プロ選手権が行われた。
賞金総額が四五万円。
優勝賞金一五万円。
今の百分の一といってもいい金額だ。
それでも、ぼくの初任給との比較なら月給の五倍ほどである。
試合数、年間二試合。
あとひとつは、日本女子オープンだった。
樋口は勝ち続けた。
日本女子プロ選手権では、七年連続優勝。
日本女子オープンでも四年連続優勝。
無敵の女王だった。
賞金獲得で樋口が初めて一〇〇〇万円を突破したのは、一九七三年である。ようやく年間十四試合という数字になったのだ。

           *

モントリオールからさらに車を一時間近く走らせて、ようやく樋口、佐々木、そして吉持姿子のいるコースに辿り着いた。
いつもの樋口になっていた。
昨夜のワインのほろ酔いかげんが嘘のようだった。
練習ラウンドを終えて、コースの練習場でボールを打っていた。
「羨ましいでしょう。日が暮れるまで、いくらでもボールを打てるのよ、こっちは。それも芝生の上から打てるんですよ。毎日毎日、こっちのプロはそうして生活しているのよ」

それは残念ながら、日本の状況とは全く違っていた。
三階建ての練習場で高いボール代を払うこともない。
またコースの練習場も、日本のようにとってつけたものでなく、樋口じゃないけれど、日が暮れてもボールを打っていたくなる設備なのだ。
日本の試合のときは、練習場がなかったり、あってもひとりに与えられるボールの数も、練習時間も短く制限される。これはまさしく、キャデラック、リンカーンという高級大型車が幅を利かせている国の練習場に違いない。そういう驚きが当時のアメリカには残っていた。

この七十七年は、ニクソンからフォード、そしてカーター政権にかわったばかりの年である。一ドル二九八円。海外旅行はまだOLたちにとっては、気軽なものではなかったし、自立する女が、まだ珍しがられていた。観光旅行気分では、生活できないのだ。

彼女たちのホテルの部屋のバスルームには、下着が所せましと干してあった。あとの洗濯ものは、コインランドリーで洗う。日本では『女王』といわれて、ゴルフだけに集中できるのに、この生活はまるでドサ回りの一団だ。

樋口は、三十二歳になっていた。
コースを見れば、樋口の飛距離は当時飛ばし屋といわれていたパット・ブラドレーという選手に楽に五〇ヤードから七〇ヤードもドライバーで置いていかれる。
「もし、私が十歳若かったら、こっちの選手みたいにオーソドックスなスイングに変えていたと思う。でも私もそう若くないし、これまでこのスイングでやってきたのだから、それを貫こうと思うようにしたんです」
樋口のゲームを見ていて、ひとつよく解ったことがあった。
彼女は、アメリカにいても日本と同じリズム、スイング、感情でゲームを運んでいるということだった。日本のプレーをそのままアメリカに持ってきている気がした。
つまり、どんなにコースの距離が長くとも、
無理にスイングを変えて強振することもない。
ゴルフの環境に惑わされず、日本でプレーしているまま、アメリカでもプレーする。
これが彼女の強さだった。
「もし、彼女のドライバーの飛距離が、あと二〇ヤード伸びたら、
彼女に勝てる女子プロは、世界中どこを探したっているわけがない。素晴らしい精神力。そして、あの頭脳的なプレーは、確かにナンバーワンだ。外国人として、この本場にやってきてあれだけのプレーをやってのける強さは本物だ」
と、ブルース・デブリンがいった。
彼は豪州の男子プロで、その全米女子プロ選手権で、NBCのテレビのレポーターとして、樋口の組についていた。

彼は、最終日、一時はスコアが落ち込んで詰め寄られた樋口久子が、最後の二ホールを連続バーディとして逃げきったゲームの興奮をそんな風に表現して伝えたのである。

まったくその通りだった。
樋口の年齢では、これからまだ二〇ヤード飛距離を伸ばすことは不可能だった。
ゴルフは、そこで完成されていて、それ以上のポテンシャリティは期待できるはずもなかった。残念ながら、樋口たちの日本の女子プロの米ツアー挑戦は、あくまでもエントリー・レベル(見習い的、初歩的な)ものでしかなかった。
一種の丁稚奉公のようなものだった。ともかく技術を盗み、赤字覚悟で毎日働き続ける図式と共通するやるせなさがあった。

気丈な樋口が、アメリカから涙ながらに肉親へ電話することもあったという。
優勝しても喜んでばかりいられるほど米ツアー生活はロマンチックではなかったというわけだ。全米女子プロ選手権の優勝は、その彼女たちの七〇年代の旅の終焉を告げるものにしか過ぎなかった。
日本の女子プロゴルフ界は、それから急激な成長を遂げるのである。


●エントリー・レベルからの脱却


岡本綾子は、一九八一年に米女子ツアーのプロテストに合格している。
岡本がちょうど三十歳のときだった。

それは、七〇年代に米ツアー挑戦を試みた樋口たちのゴルフとは明らかに違っていた。
樋口が全米女子プロ選手権に優勝した一九七七年には、日本での試合は年間二十四試合と増えていた。
その頃は、樋口の渡米スケジュールに合わせて、大会日程が調整されていたといっていい。彼女がいないことには、イベントとしての女子ゴルフ・トーナメントが成立しないというスポンサーの理論だった。年間賞金総額も急激な加速度で増加し続けた。
七七年が一億二二四五万円。
七八年は、二億一六〇九万円。
そして一九八〇年には、三億一六五二万円までに増え続けた。
女子プロも百七十二名。
およそ十年で、三倍以上になったことになる。

確かにそれには“樋口効果”もあった。
でもそればかりではない。

アメリカと日本の経済も文化も、急速に変わった。
いつしか日本は、経済大国になってしまっていた。
一ドル二四〇円から一三〇円時代までに急激に変動し、揺れ動いたのである。
海外進出は、企業ばかりでなく、円高のおかげで、旅行、留学と急増していった。

岡本の米ツアーでの活躍は、それを象徴していた。
スポーツ紙、ゴルフ誌の記者とカメラマンが常時、女子ツアーについて岡本を追っている。樋口久子が、全米女子プロ選手権で優勝したときは、日本人カメラマンは、たったひとりだった。日本の企業が、スポーツのあらゆるジャンルのイベントの冠スポンサーになるのもこの八〇年代の傾向だった。海外から入ってくるスポーツの情報量が、日本で氾濫状態になってきたのも、日本経済と日本人の海外進出に無関係ではない。
ともすれば、情報過多になるほど情報が溢れる日本。
それをトレンディとくくって次から次へと使い捨てていく。貿易摩擦。ジャパン・バッシング……。

法務省の出入管理統計によれば、樋口がアメリカ遠征へ初めていった一九七〇年の留学生の数は、四千六百五十九人だった。
岡本が行った一九八一年には、それが一万四千二百七十九になり、八五年男女雇用機会均等法が成立した年には、二万三千八百三十人になっている。
もちろん、それは正規の手続きを経ての数字で、「留学生」と称した落ちこぼれの自称・留学生も含めれば、もの凄い数になることだろう。その一九八五年に成立した「男女機会均等法」のプロローグは、女子プロゴルフ界にもあった。

かつて樋口が女子プロを目指した時代は、
いわゆるキャディからの転身プロがほとんどだった。
ところが八〇年代に入ると女子プロ志願者は、
大学、あるいは高校でスポーツを経験した女性が主流を占めてきたのである。
岡本をはじめ、小林浩美、小林洋子、高須愛子たちは、ソフトボールの経験者。
森口祐子は、バスケットボール。
つまり、女性が、自分の特性を十分発揮できる職場に
進出する時代を物語っているのである。

またその傾向は、ゴルフそのもののも変えてしまった。
熟達した技術を身につけてプロになるというのではなく、
まずパワーが先行したゴルフである。
それなりの基礎体力を持つ選手は、
ゴルフを始めて三年、五年でプロテストに合格する。
器用な選手は、経験をつんでいくのと当時に技術力がついてくる。
岡本の飛距離も並でなかった。
二五〇ヤード。
男子プロ顔負けといわれた。
女性が、パワーをつける時代だったのだ。

さらにその傾向は、日本という市場だけにとどまらい。
岡本のアメリカ進出は、むしろ樋口とはまったく逆の発想と時代背景だったといえる。
「アメリカは、凄く合理的でしょう。
企業のことはよく知らないけど、そういうすべてがそのセクションで
責任を持っているということ。
一人の責任者が全部をテイクケアしているんじゃなくて、
一つ一つに責任者がいるということ。明快なんですよ。
でもサービス業なんて、かなり横暴な態度で接するところが多いんですよ。
それが値段と正比例するわけ。高級なところでは、態度がいいし。
そうでないところは、それなりに。これも合理的といえるかもね」

彼女は一九八二年から本格的に米ツアーへ参加している。
その年すぐにアリゾナ・コパー・クラシックに優勝。
十四試合に出場して、八万五二六ドル稼ぎ、賞金ランキング十四位になった。
その翌年も一勝し、十三万一二一四ドルで賞金ランク十位。
一九八四年には、三勝で二五万ドルを越えた。
しかも賞金ランク三位と、米ツアー押しも押されもせぬトッププロとなったのである。

ところがこの秋に、岡本の腰に激痛が走るようになる。
彼女は、三十三歳を迎えていた。ソフトボール時代は、速球のピッチャーとしてならし、ゴルフに転身しても飛ばし屋で、肉体を酷使したツケが、まわってきたのだ。

一九八五年のシーズン半ば、彼女はついにクラブを振れなくなるほどの痛みで、ツアーを一時諦めて入院した。パパイア・インジェクションという方法で、腰痛を治療した。

一九八七年の夏。
ニューヨークから、飛行機で三十分。
東のラスベガスといわれるアトランティック・シティに岡本を訪ねた。雑誌のインタビューが目的だった。それまでぼくは、三十回近く取材で旅行していて、そのときはじめて荷物が紛失するという経験をした。
岡本に話したら、
「なーに、そのうち届くわよ。明日の朝の便だよ、きっと。
ニューヨークで積み忘れたんでしょう。そういう国なの。
まあ、今夜は、裸で寝るのね」呑気なもんである。
アメリカ生活七年目のキャリアだった。

ぼくは、ゴルフコースの中にある豪華なホテルのレストランで岡本と向かい合っていた。アトランティック・シティの試合だった。
大きな窓から、強い日差しが差し込んでいた。
「この食器、ずいぶん素敵ね」
岡本は、目の前のウェッジウッドのお皿を裏返しにしてみていた。きっと、フロリダの家かロサンゼルスあるコンドミニアムの自宅の食器棚に似合うデザインかどうか、見定めているだろう。アメリカを本拠地としている彼女は、その必要性と投資もあってそれらを購入した。

ぼくらが、インタビューにいったのは、腰の治療に成功し、なおかつ再び勝ち抜いて賞金女王へと進んでいる岡本に対する興味からであった。


●腰痛を克服して賞金王


どうしても聞いてみたかったのは、岡本が腰を痛めた時期が、ある意味では、不幸中の幸いだったという、ぼくの推理を確かめることだった。

「アメリカのツアーにでて、ちょうど三年目に、腰を痛めたでしょう。
あれってあなたのゴルフ・スイングにとって幸いしたんだと思うけど」
その質問には、根拠はあった。
プロゴルファーにとって、通らなければならない関門がある。
それは、尾崎もそうだったが、ワトソンも、ニクラスも、バレステロスも、誰でもみんな若さで振り回すスイングからの脱皮を図らなければいけない通過点があるということだ。これが成功するかしないかで、その後の選手生命が決まるといってもいい。筋力やバネのパワーだけに頼るのではなく、体と頭脳と技術の総合力でゴルフをしていかなくてはいけなくなるのだ。


●「イエス!」岡本は、そう答えた。


「もし腰を痛めないで、あのままのスイングでゴルフをしていたら、もっと波があるゴルフになっていたと思う。それが、自然に、ほんとに神様が与えてくれたものだったかも知れない。腰をなおして一年目は、スイングに悩んでいた。というのは、まだ筋力に強い部分が残っているわけで、お互いにケンカしていたんだと思う」

岡本は、思わぬ激痛というアクシデントを克服し、
ついにこの八十七年、賞金王になる。

             *

八九年の六月。
岡本は、ロチェスターで行われた男子の全米オープンを観戦に来ていた。数ホール一緒に観戦して、あまりのプレーの遅さに、このペース見ていても疲れるね、とぼくはネをあげた。
「こういうときは、呼吸もこのペースに合わせて歩けばいいのよ」と岡本は言った。
いろんな意味で、岡本は変わっていた。
「アメリカにきて、岡本綾子の素直な部分がよく引き出せたのが、いいほうにつながったのだとおもう。岡本綾子は、広島から出てきた田舎もんだ。そのままが、こういうふうにいい結果を生んでいるということに、自分で感激するもの」

二年前の言葉がよみがえった。
スーツケースがふたつ。
それに重たいキャディバック。
さらにブリーフ・ケース。
毎週、その荷物と一緒に全米を飛び回る。
「結婚が、私の人生のすべてではない」
とも岡本がいっていたのも思い出した。
彼女は、現金六〇万円を持ってアメリカに渡った。一九八一年に米国のプロテストに合格し、本格的に米ツアーに腰を据えようと出発した、一九八二年のことである。

かといって彼女の六〇万円の現金が、有り金すべてではない。賞金だけの稼ぎでいえば、八一年の彼女の賞金獲得額は、二三三万三四六五円で、それまでにもプロ入り以来、五六三万五二〇五円を稼ぎだしている。つまりおよそ九千万円近い賞金を稼いだ実績と、経済的な裏ずけを持ち合わせていたことになる。

樋口はどうだったか。
金額で比較すれば、通算賞金獲得額は、全米ツアーに挑戦する前の二年間で八五万円しかなかった。
当時、岡本は、いった。

「いったいどうなるんだろうという不安は、もちろんありましたよ。
どうやって生活するんだろうなと。そのお金で、ホテル代もすべて支払うわけですよ。
クレジットカードも持ってましたけど、やっぱり日本人の感覚だと、
現金がないと淋しいじゃないですか。
それが、一週間、二週間……1ヶ月と過ぎたら六〇万円より増えているわけです。
ありゃ、こりゃどういうこっちゃ。(笑)でも、私の職業がゴルフでよかったと思いました。
言葉がいらないじゃないですか。ゴルフに関しては……。
でも、コースを離れると、最初言葉が喋れないといちばん淋しいわけですよ」

岡本の米ツアー挑戦については、女子プロ協会と岡本の間でかなり問題が起こった。彼女が一年間ずっと米ツアーで戦うことは、
協会に大きなダメージを与える、ということだった。
樋口の時代と違って、試合数、賞金、スポンサーの数、テレビ放映の量……
すべてに注目される機会が増大していた。
そしてその中で岡本は、一億円プレーヤーの看板選手になっていた。
日本の選手層は、厚くなったとはいえアメリカとは比較にならないほど貧弱だった。
アメリカの女子プロの歴史が四十年あまりで、
世代交代を何度も経験ししっかりした女子プロ文化が出来上がっているのに対し、極端に言えば、日本からは樋口からようやくひと世代過ぎたばかりなのである。
樋口がいないとトーナメントが開けないという時代感覚を
岡本にもあてはめてしまったところに、このいさかいの原因があったと思う。
マスコミが、さらに火を注ぎ、岡本の立場は余計に複雑になった。
もう日本に未練はない、というコメントで協会を批判した記事もでた。
その批判に協会もエキセントリックに騒いで、
岡本は孤立したまま米ツアーの最初の数年間を送ることになった。
岡本が、プレス・インタビューで底抜けに明るい笑いを見せなくなった理由は、
ここにもあった。

岡本から面白い話を聞いたことがある。
それは、過去にソフトボールでピッチャーをやっていた
自分のゴルフについての解説だった。
「ピッチャーというのは、三球遊べるんですよ。
ストライクを続けざまとるんじゃなくて、ちょっとボールを投げてかわしてみたり、
スリーボールぶん、遊べるわけですよ。
ところがゴルフは、一球も遊べない。
ボールを投げてかわすなんて一打はないんです」

だからゴルフは難しい、ということなんだけれど、
ぼくは彼女はときどき、ゴルフでもこの三球の遊び球を
投げていたんじゃないかと思うのだ。
当初は、ゴルフのゲームそのものの中で、
例えばパー5のホールで、長打力にものをいわせて、2オンを狙うとき。
それがグリーンにこぼれたときなど、顕著である。
ポロッポロッと続けざまに3球遊んでしまいバーディを逃す。
あるいは、深みにはまってボギーとする。
そういうポカが無くなったかと思うと、今度は言葉で三球遊ぶようになった、
とするなら誤解を受けてもしかたない発言もでたのではないか。
その岡本の時代を通過することによって、
ようやく日本の女子プロゴルフ界も
十億円の賞金総額を支える次の世代の選手を生むことになった。


●小林に秘められた可能性


樋口久子はハードルのバーをひとつひとつクリアして、
一直線に駆け抜けるようにそのゴルフ人生を送った。
岡本綾子は、時折、三球のボールを遊ばせながら、
米ツアーへと挑戦し、一時代を築いた。

一九九〇年代の日本の女子プロゴルファーの女王の座は、
どうやら小林浩美に受け継がれるらしい。
彼女もまた、ソフトボールのピッチャー出身だが、
どんなピッチングでゴルフ人生を送っていくのだろう。

昨年三月、スカイコート・レディスでプロ入り初優勝を果たした。
ぼくは、八八年の二月、彼女をハワイのワイキキの近くでみかけた。
彼女は、樋口久子たちと一緒に買い物にでかけていた。
その道すがらである。いちばん後ろに少し隠れるようにあるいていた。
彼女は、その年賞金ランキングの六位に入っている。
それまでは、
「二位も五十位も一緒という考えに近かったけれど、
常に優勝できる位置にいてこそ、勝てるチャンスが巡ってくる。
というふうに気持ちを切り替えたのが、よかった」のだという。
「優勝回数がたくさんあるということは、
それだけ二位もたくさんあるということだということがわかったんです。
だから負けて二位になることも嫌じゃなくなったんですよ」

樋口から、一勝したときに
「二勝してはじめてプロと評価される」
といわれて、ともかく二勝しようと思っていたという。

六月には東北クィーンズをはじめとする三勝、
さらに七月に一勝、そして十一月のエリエール女子オープンでも一勝をあげて、
通算六勝を果たした。初優勝した年にこれだけ勝ったのは、
十一年前の森口祐子が四勝を記録しているだけである。
エリエールの前週、イトーキクラシックでは、
この三人が一位(岡本)、二位(小林)、三位(樋口)を占めた。

七〇年代に登りつめた樋口と、八〇年代に別の入り口をつくって、
登りつめた岡本、そして九〇年代に向かって登ろうとしている
小林の三人の優勝争いだった。 
翌日のスポーツ紙は早くも「三代女王」と大きく見出しにつけた。
「自分がもし敗れたら、あしたの新聞に、
新旧交代という活字が載るだろうな」と岡本は、ラウンド中に思ったという。

小林は、それほどの可能性を秘めた女子プロなのだ。
彼女が、昨年の夏、アメリカのプロテストの予選に出かけたとき、
日本のマスコミは、テレビ局までカメラマンを送り出して彼女を追った。
もちろん、本選も同様の報道合戦が行われた。
「なぜこんなに日本のマスコミは、取材に来ているのか」
という質問は、飽きるほど海外で聞かされる言葉だ。
八〇年代を軸にして、情報産業は、日本がリードしてしまっている。
そのソフトはともかくハード面では、確実に世界を席巻している。


●小林の拠点はアトランタ


航空輸送は文字通りエアバスの感覚になって、
乗る人間と乗せる側の人間の安全に対する神経麻痺が怖いけれど、
ますます海外との距離感を縮めてしまうことになるだろう。
産業経済、物質面で、輸入するものがなくなった日本は、
遅ればせながらスポーツ、スポーツ・イベントの輸入を金に飽かして強化させ、
なんとか欧米諸国へのコンプレックスから逃れようとしている。
それでいて、ほとんどのスポーツが、日本は、いまだにエントリー・レベルなのだ。

ゴルフ、とりわけ女子プロゴルフは、すでに樋口の時代にエントリー・レベルを終えて、岡本が海外進出に成功した。
岡本は、かつてB・デブリンが樋口に言った
「二〇ヤードの飛距離」を満足させられる選手だったからである。

その岡本が、日本を離れて米ツアーに腰を据えたときとも今は違っている。
女子プロの賞金総額は、当時の五億円あまりから、一七億円に増額され、
一九九〇年度はさらに増額が見込まれる。
若手の実力のある女子プロも増えている。
小林浩美が二十七歳。そして谷福美が三十歳。
十九歳で初優勝した平瀬真由美……。
「平成」という年号、一九九〇年代が、どういう時代になるかわからないけれど、
少なくとも日本の女子プロゴルフ界をリードするのは彼女たちだ。
小林浩美はその中心的立場にいることは間違いない。

彼女は、一九六三年一月に生まれている。
身長が百七十センチ、岡本より七センチ大きい。
彼女が卒業した福島県立磐城女子高校は、県内でも指折りの進学校である。
ソフトボール部にいた。
将来は体育の先生、できれば外交官になりたいという夢を抱いていた。第一志望が筑波大学、そして早稲田大学も受験した。それに失敗して、茨城県の常陽CCに入った。
ゴルフは、そこで学んだ。
彼女の師匠は、そこのゴルフ場のプロ、中島弘二である。
「女性だから、女性的なスイングという感覚はもうダメだと思う。
スイングに男も女もない。男と同じ教え方をするけど、ついて来るか?」 
中島は、彼女にそう言ったそうである。
徹底的に鍛えられた。
さらにトーナメントに出るようになってからは、
樋口久子、小林法子らと一緒に行動した。
葉美会といって、千葉を中心に近郊の美人(?)プロたちが集まって、トレーニングや練習をする仲良しグループである。彼女は、樋口や小林法子というベテランの技術をちゃっかり盗みとっていたのである。
ともかく吸収できるものはなんでも吸収する旺盛さが彼女にはある。
「ともかく他人に何かいわれると、それを全部吸収しようとして、
ときどき自分を見失っちゃって、シュンとなっちゃったりもしましたけれど、今はガラッと変わって“私のゴルフはこのスタイルなんだ”って
自分で思い込むようにしてるんです。
何を言われても、自分の前でポンポンと跳ね返しちゃう。
私は、これよ! っていう自信がゴルフについてきたような気がするんです」
吸い取り紙に染みつてしまう様々な色彩の中で、その濁った部分を、うまく濾過させていくようにして、小林浩美のゴルフが、とりあえずできあがったのである。
「日本でまだもう少しやればいいじゃないか、という人もいます。
日本ならもっと勝てるって……でもアメリカのスケールの大きさが気にいっているんです。いろんな発見があると思うんですよ」

英語は?
「ダメです。イッヒッヒヒッ」
英語のテープは、ホコリをかぶったままで新年を迎えてしまった。

一月十八日。
彼女は成田を旅立った。
通訳兼マネージャーに同級生の清宮範子さんを連れて。
清宮さんは、外務省に勤めていたという経験がある。
とりあえずアメリカでの拠点をアトランタに置いた。
ロスやサンフランシスコ、あるいはフロリダという都市が、今までのゴルファーの拠点だった。アトランタは、むしろ日本の商社や企業の支社が集中している都市である。
広いアメリカを飛び回るには、最も適した場所だからである。
アメリカのヘソが、この都市になっている。
ゴルフだけじゃない発見も夢見ているのだろうか。

もう日の丸ハチ巻で、お国のためにゴルフをやるなんて女性は、いなくなった。
それは、自分の可能性を夢見て、海外に留学したりバイリンギャルになったり、MBA(経営管理学修士)をとって米国の会社で個室を与えられる女性たちの感性と同じなのであろう。
「岡本さんは、すごく、すごーく、凄い人だと思うんです。
私は、まだほんのさわりをちょこちょこっとやっているぐらい。
ですから、あそこまで行けたらいいなという道しるべのような存在かな……。
岡本さんから私は、『自分が来たとおりに来なくてもいい』ってそういわれたんです。
えっ? 目標ですか。
常にベスト一〇……とはいかないでしょうから、
ベスト二十とか三十とか……そのへんで……イッヒッヒヒッ」と、例の笑いがでた。

彼女の緒戦は、二月一日からのオールズモービル女子ゴルフである。日本からの取材陣は、およそ四十名にも及んだ。
新聞、雑誌にテレビ局までもが小林浩美の米ツアー第一戦を注目した。岡本はアメリカにはいたものの、左ヒジが完治せず治療中で、幸か不幸か小林フィーバーから逃れて過ごした。
そして樋口は愛娘を抱きながらオフのゴルフを楽しんだ。

……構成・三田村昌鳳