
●リー・バック・トレビノ
(1939年12月1日テキサス州ダラス生れ)
貧しい家に生れたトレビノは、8歳のころからダレスアスレチックCCでキャディをし、
10歳を越えるころには、もういっぱしの賭けゴルフをして稼いでいたという。
1956年、17歳で海兵隊に入隊、日本へ配属になって沖縄や各地でプレーをしている。
階級は軍曹だった。プロになったのは除隊してすぐ。
そして翌'61年、21歳で結婚している。
ツアーに参加したのは'67年から。その翌年の全米オープンに優勝し、
一躍トッププロの仲間入りを果した。以後、毎年ツアーで勝星を重ねていったが、
'82、'83年は未勝利、限界かと思われていたが、今年の全米プロで
27個目の勝星をあげて3人目の300万ドルプレーヤーに仲間入りしている。
'67年のUSオープンに勝ってから順調にトッププロの道を歩んでいったトレビノは
、'70年に賞金王を獲得、その後も'82年を除き、
ずっと上位でシード権を確保し続けている。
'75年6月27日、ウエスタンオープンに出場中、13番グリーンで落雷に遭い、
九死に一生を得た。その後、'76年のコロニアルオープンに優勝直後、
落雷の後遺症ともいうべき推間板ヘルニアの手術をし
復帰直後のカナディアンオープンに優勝するという不死身ぶりを見せ、
'80年のベン・ホーガン賞に選ばれた。
ツアー27勝のほか、全英オープン2回、ワールドシリーズ、
メキシコオープンなどにも数多く勝ち、'71年プレーヤー・オブ・ジ・イヤーに選ばれ、
そしてバードントロフィも5回獲得している。 |

実にリカバリーのうまいスクランブル・ゴルファーだ
いったい、この男の正体はどこにひそんでいるのだろう。
人は、彼を“スーパーメックス”、陽気なトレビノと呼ぶ。
また“フェアウエーの道化師”とも呼んでいる。
とにかく喋りまくるのだ。止まらないのである。
「やあ、元気かい?」
このひと言を言ったばかりに私は、
およそ5分は彼のお喋りに付き合わされる破目になってしまう。
「この間、ニューヨークであるレストランに入ったんでさあ。そしたら、どうです、20分以上も待ってもなかなかウェイターがやって来ないんだ。こんなことってないやね、サラゼンさん。俺は、全くたまげちまった。でも、きっと忙しいんだろうと俺も良く解釈して待っていた。お腹が背中にひっついてしまうのを、こらえるのに必死でしたがね。さて、ようやくかのウェイター君がやって来た。で、こっちは“さあ、美味しいものでも注文して、心を安らげよう”と意気込んでいたんですよ。もう、こっちの頭の中には、注文するメニューが、いくつも決まっていた。パーティが開けるくらいに、ね。すると、どうだろう。そのウェイター君、ムッとした顔で、ポンと灰皿をテーブルに叩きつけるようにして放り投げるんだ。“お客さん、何にするんだ?”こっちは、思わず叫んじまったね。“悪いけど、まず第一に別のウェイターを注文したい!”ってね。だってそうでしょうが、サラゼンさん。こっちは、客なんですぜ……」
このまま彼の話を続けると終りそうもないから、
とりあえずここで止めておくことにする。
よく喋りまくる。
これは、確かである。そして、紛れもなく世界の一流プレーヤーの一人である。
リー・トレビノ。
テキサス州ダラス生れのこの男のエピソードは、きっとドラム缶がいくつあっても足りないほどだろう。
エピソードがついてまわる。
さてさて――。
私が初めて彼と出遭ったのは、何年だったかな。
試合は、ウェストチェスター・クラシックで、そうそう、彼がまだ世にデビューする前だった。1960年代の中頃、はっきりはしないが、ともかく私は、トレビノと一緒にプレーしていた。もう一人、坊や(新人)がいた。そう、ジム・コルバートだった。彼は、ちょうど学生ゴルファーからプロに転向するという、今では当り前になっているパターンの、パイオニアだった。全米学生選手権に勝ってプロ転向。地元のカンザスでは、エリートゴルファー。
そんな坊やとトレビノと私と一緒にプレーしたのである。
1966年頃だったろう。
ふたりのスコアは、トレビノが69、コルバートが70であった。
それが、実は私には、どうもピンとこない、というか、理解しがたいものだった。
なぜなら、育ち方がまったく異なるルーキーふたりのゴルフが、どちらも、安定したショットを重ねていってバーディをとって行く、というタイプのゴルフではなかったからだ。コルバートは、18ホールのうち、17回もグリーンを外していた。寄せまくっての70である。そして、トレビノは、半分近く、グリーンを外しての69なのであった。
トレビノは、しかし、グレート・スクランブラーだな、と思った。
つまり拾いまくるゴルフがうまいのである。
ロッカールームに入って、私は、ニューヨークタイムズ紙のアーサー・デイリーに、インタビューを受けた。彼もこのふたりのルーキーについて興味があるらしかった。特に、トレビノについては、詳しく聞かれたことを覚えている。
「そう、チャンピオンになるための条件のひとつを強いてあげれば、それは偉大なスクランブル・ゴルファーでなくてはいけないと思うんだ。単に、ショットがうまいからというだけでは無理。小技がうまかったり、ミスしたときの対処のしかたが巧みでなければならない。リー・トレビノこそ、その条件にピッタリとあてはまっている男さ」
トレビノが、実質的に世のゴルフファンの前にデビューしたのは、それから間もなくであった。

初の全米オープンで5位 これが彼の生きる道を決めた
紛らわしい話だが、彼は今年離婚、再婚をしている。
何が紛らわしいかというと、前夫人もいまの奥さんも、名前がクローディアという。勿論、私が知っているクローディアは、前夫人のほうである。
有名な話だが、トレビノがチップショットやパットなどの練習の時にも、賭けた金を目の前にしてやっていた時期がある。「おい、あそこの草が茂ったところにピタリと寄せられたら、10セントやるぞ」
「まかしてよ」
勿論、この勝負はトレビノの勝ち。
メキシコ人とアメリカ人の混血。父親の顔は、知らない。キャディのアルバイトをやっていた。そう。キャディバッグが自分よりも大きな頃からである。しかも賭けゴルフで育ったから粘り強い。トレビノがプロになったのは、米ツアープロになる7年も前の1960年であった。
彼は、エルバソの練習場でレッスンプロをやったりして生計を立てていたのである。前夫人、クローディアとは、その頃結婚した。その彼女が、1967年全米オープンの予選会出場の申し込みを内緒で、勝手に送ったのがきっかけで、トレビノは世に出ることになる。2回の予選をいずれもトップで通過して、全米オープンの本戦に出た。そして、見事に5位に入って、それからツアープロとして生活して行く決心がついたのである。
そして、その翌年の1968年、オークヒルでの全米オープンに、ニクラスを破って優勝したのである。その前年、バルタスロールでの全米オープンに勝ったニクラスの、2連勝というゲーム展開をひっくり返したものであった。1971年の全米オープンも、ニクラスとトレビノの争いになった。ともに4日間280ストロークでタイ。翌日のプレーオフとなったのである。
ここで、有名な“事件”があった。
1番ティグラウンド。トレビノは、スタート時間ギリギリにやって来て、やおら準備を始めたのである。まず、キャディバッグから手袋を取り出し、それを手にはめる。そして、またバッグの中をゴソゴソ。ニクラスは、近くの誰かと話をして待ちわびている。すると、「ジャック!」とトレビノが声をかけるなり、ポンと二クラスの方へ何かを放り投げた。それを見るなり「ギョッ!」とした。なんとヘビを放り投げたのである。もちろんオモチャのヘビ、だったらしいが。実は、この光景は、私は見ていない。その後、トレビノというと誰もが、この“ヘビ事件”から話をはじめるものだから私も見たような錯覚をしてしまうのだ。ジョーク。これはトレビノの専売特許である。彼がフェアウエーでスペイン語でペラペラとやったら、これは間違いなく“女”の話題だ。
「とにかく、14時間もまるまる喋り通しなんですもの」
これは、飛行機でどこかへ行ったときのトレビノの話である。
夫人が機中で眠るヒマもないくらいだったそうだ。
「このあいだ、やはりレストランで、ちょっぴり老けたレディが俺の前にやって来たんだ。“まあ、トレビノさん。私はあなたの大ファンなんですよ。是非この紙にサインして下さい”そういってナプキンを俺に渡すんだ。ちゃんと何か固いものが下敷になっていて、俺は、ボールペンでサラサラとサインをしてあげた。“私、このサイン、死ぬまで離さないわ。大切に家にしまっておきます”そういって帰って行ったんだ。やれやれと思って食事を終えた。するとキャッシャーの人が、俺にとんでもないことをいうんで、ビックリした。“あのう、こちらのサインのしてあるビル(請求書)も、あなたの支払いでいいんですね”なんと、どうだいあのババア。一生離さないなんていっていたあのナプキンの下に、ビル(請求書)のクリップを敷いていたんだよ。全く、まいったね」
彼は、下世話な話から始まって、かなり人生哲学的な話を知らぬ間に織り交ぜているような気がする。私は、人と話をするときには、必ずその人の目を見るが、初めて出逢った日、私は彼の目を見て、なんて寂しそうな目をしているのだろうと思った。目尻には、シワがたくさんあった。彼は、若いうちに、その年齢の倍以上の苦労をしていたのだろう。最初のレストランでの話に戻ろう。
「……で、そのウェイターに言ってやったんだ。“君は、そんなにこの仕事が嫌いなのか。だったらすぐ辞めなさい。外を見てごらん。このニューヨークには失業者がわんさといる。仕事を欲しがっている。その人に代ってあげなさい”だってそうでしょう、ね、サラゼンさん。客に美味しく、楽しく食べさせるのが彼らの仕事。それがプロフェッショナルというものと思うんですがねえ」
トレビノの軽妙なジョーク。
これはプロ意識から出ているのかも知れない。
エルパソのゴルフ場に転がっていたダイヤモンドの原石
リー・トレビノの軽妙なジョークについては、もう今更、これ以上並べあげる必要はないだろう。むしろ、その軽妙なジョークが表に出れば出るほど、見逃してしまう彼本来のプロゴルファーとしての資質、そして彼の裸のままのキャラクターを、もっと慎重に理解して欲しいと思うのだ。
1968年の全英オープンに勝って、彼はこの年の賞金ランキングで6位になった。そして'75年までの8年間、ずっとベスト10入りを果している。つけ加えるなら、'67年にツアー参加して昨年までの17年間のうち、11回もベスト10入りを果している。バードントロフィといって、年間平均ストロークのトップに与えられる名誉ある賞を、彼は、5回もとっている。
そして、何よりも嬉しかったのが、ベン・ホーガン賞だと、彼が言ったことがある。
それも、軽妙なジョークを交えてだったが。
「いつだったか、うちのヨメさんが、あなたに取って欲しいのはあのトロフィよっていい出した。見ると、ホーガン賞だったんだよ。だから俺は“お前、ちょっと気でもおかしくなったんじゃないか?”っていってやったさ。そして、続けて“じゃ俺は、車にでもぶつかって死にそうになればいいっていってるのかい?”ってね。そしたら、なんてこった。うちのヨメさんの望みを達成しちまったんだよ」
1980年に全米ゴルフ記者会は、彼にベン・ホーガン賞を贈ったのである。これは、ホーガンが交通事故から奇跡の復活を遂げたことが発端となって、そういった不慮の災難で身体障害を来たし、なおかつそれに打ち勝って頑張っている選手に贈られるものである。
不慮の災難――。
トレビノの場合は、雷が原因であった。
あれは確か、1975年だったと思う。ウエスタンオープンのプレー中に落雷に遭遇し、トレビノは生死を彷徨ったのである。結果、推間板をやられてしばらくは使いものにならなかった。そして'77年に手術をしている。'76、'77年の賞金ランクで10位以内に入れなかったのは、このせいである。
それにしても、彼は全く生命力の強い人間だと思う。
彼の出生も、幼い頃の生活環境も、私は、そんなに詳しくは知らない。ただ幼い頃からキャディで金を稼ぎ、独りで生きて行くという生命力を十分持っていたということは理解できる。それは、私自身と全くもって変らない境遇だったからである。海兵隊に入隊し、日本にも何年かいたらしい。その時に、オービル・ムーディと知り会い、ムーディに全米オープン出場を勧めたのである。「君なら勝てるさ」という暗示に、ムーディはまんまと乗ってトレビノが勝った翌1969年の全米オープンに優勝したのだ。
トレビノの場合、全く磨かれていないダイヤモンドの原石がエルパソのゴルフ場に転がっていたと思えばいい。それは、レイ・フロイドからも聞いたことがある。
「とんでもない奴がいるんですよ。サラゼンさん」
「何だい?」
「リー・トレビノっていってね……」
「あー、彼か。あいつはこの先有望な人間だぞ」
「僕は彼と賭けゴルフをやったことがある。彼は、一応プロなんだけどふだんはクラブの雑用をやっていて――信じられない――彼とやるときは、金をいくら用意しても足りないんですよ(笑)」
かつて、ボビー・ロックが、当時全盛のサム・スニードと南アで戦って、ほとんどの試合を、ロックがとっている。これにも大金がかかっていたのだが、ダイヤの原石は、そんな風にして磨かれて、世に出るようになったのである。

ひどいフック病から生れた独特のフェード打法
彼がはじめて賞金王となったのは、1970年。
しかし、トレビノにとってめざましい活躍は、何といっても1971年。
つまり、その翌年のことだ。あのメリオンでの全米オープンでニクラスとプレーオフの末に勝ち、続いてカナディアンオープン、そして全英オープンと、3週間で、三つの国のナショナルオープンに勝ってしまったのであった。これには私も、いささか驚いてしまったものだ。その全英オープンは、ロイヤルパークデールで行われた。2位になったのは台湾の呂良煥。1977年に、日本の鈴木規夫が、10位タイになったコースといえばピンとくるであろう。
トレビノの打法は、左から右。つまりフェード打ちである。
極端にオープンスタンスをとっている。
「昔、俺はフックがひどかった時期があったんです。じゃ、仕方ないから思い切りそっちの方向に向いたらどうなるかってやってみたら、この通り(笑)」
トレビノは実践論者なのだ。そのせいで、自己流でつかんだ打法になってしまっている。しかし、私が注目するのは、彼のバックスイングである。両肩と両腕の使い方は見事だ。これができているから、あのフォームは成立している。それにフットワークがうまいことも確かだ。トレビノは、今の時代では変則的なスイングであるが、彼のロングショットの正確さは、誰にも負けることはない。
「俺がマスターズに対して言った言動がいろいろ誤解されているけど、別に特別な偏見を持っているわけじゃあないんですよ。ただ、俺にとっては向いていないコースだといっただけなんだ。それに、俺はやはりラフは、あるべきだと思うんです。ミスショットした人間はペナライズされるべきだし、正確なショットはやはり、報われてしかるべきじゃないですかねえ」
彼のいうことは、理解できる。近年、マスターズは、飛ばし屋に確かに有利になってしまっている。曲がってもラフがない分、飛ばし屋にチャンスがある。正確さを持つトレビノとしては、不満なのだろう。それに、低いフェードで攻める彼にとって、不利であることもわかる。
彼は、そのマスターズの優勝を残してあとの3つのメジャーには、全て勝っている。私個人の考えとして、彼に是非マスターズに勝って欲しいと思うのだ。彼なら、何らかの方法をみつけ出せると思うからである。
「俺はラッキーな男だと思う」トレビノが、そういったことがある。
「プロゴルファーになって、自分の力で大金が稼げる。この間なんか、マットレスの宣伝に出させてもらったんですよ。“あー、これでオレは、寝ていても金が入ってくる身分になれた”って、みんなで大笑いしたんだ。それに、女性にもモテるしね。だからツアーでは、絶対に女房同伴ということをしませんや。だって、レストランにわざわざ弁当を持って行く人間は、いないでしょう」
まったく――。
おかしな人間である。
その昔、新聞売りを私がやっていたことをふと想い出した。あの頃、家族がその日の食事にありつけるかどうかという時代に、私は、新聞売りのアルバイトをやっていた。そしてどうしたら一部でも多く売れるか、子供なりに研究し、いちばん人の多い駅を選んだ。しかも、プラットフォームで電車を待っている人を、目標にした。人間は、生き抜いていくことに知恵を編み出し、その中で自分を形成していく。リー・トレビノの人生が、まさにそうである。そして、彼のゴルフの巧みな技は、それらの産物ではないだろうか。
トレビノは、現在、300万ドルプレーヤーとなっている。
しかし、その金を全て自分のためだけに使っているわけではない。
チャリティとして、いろんな所へ寄付しているし、彼の心優しい行動はいまだに変っていない。
最近では、ゴルフ中継の解説者として登場することが多い。
その解説を私も何度となく聞いたことがあるが、実に、分かり易いし、変におしつけがましいところがない。それは、彼の性格であろう。そして最後にもうひとつ。是非、チャンスがあったら、トレビノのショートゲームをじっくりと見るがいい。
一般のアマチュアに、十分参考になるものがたらふくあるからだ。 |