![]() 不思議に勝負強い男・パーマー 「サラゼンさん、すまないけど、デトロイト・カントリークラブまで行ってくれないだろうか」ある日、ウイルソンの社長から、そんな依頼があった。 「いったい、私に何をさせようというのかね」私とウイルソン社とはかなり長い間つき合っている。単に契約プロというだけでなく、多面に渡っていろいろなアドバイスを授けたりしているのである。「実は、全米アマチュア選手権を見に行って来て欲しいんだ。その大会に、ペンシルバニア州から若い選手が参加している。ラトローブという街から来ている男なんだけど、その男のゴルフぶりをちょっと見て欲しい。彼は、親父さんももとプロゴルファーで、ウエイクフォレスト大学を出たばかりの大変強いアマチュアだという情報が、私のもとに届いている。もし、あなたが見て、いいプレーヤーだということになったら、我々は、ぜひその男と契約をしたいんだが…。どうかね、行ってくれるかね」私は、せっかくの社長の頼みということもあって、快く引き受けようと思った。「で、その男の名前は?」 「パーマー。アーノルド・パーマーという名前なんだ」――私が初めてアーノルド・パーマーという名前を聞いたのは、この時であった。 あれは、ちょうど1954年のことだった。ミシガン州デトロイト・カントリークラブで行われた全米アマチュア選手権である。パーマーは、準決勝に残っていて、オハイオ州クリープランドの北からやって来た、やはり大変強いアマチュアのマイスターという男と、戦っていた。彼らは、互いに譲らぬ、伯仲したゲームを続けていた。このマッチは、オール・スクエアのタイで最終ホールまでもつれ込んでいた。私のパーマーに対する第一印象は、あんまりいいものではなかった。ともかく見ている限り、かなりひどい球を打っていた。そのほとんどがダッグ・フックである。それに、スイングも別にこれといっていいとは思わなかった。最終ホール。相手のマイスターは、第2打を2番アイアンで打って、ピンから4メートルほどのところにつけたのである。そして、パーマーの第2打は、グリーンをはるかにオーバーしてしまった。私は、これで勝負は決っただろうと思った。マイスターは悪くても、パーかバーディチャンスである。一方のパーマーは良くてパー、ボギーになる確率も非常に高いのだ。パーマーが、第3打を打った。そのアプローチも、ピンまで8メートルと、うまくいかなかった。ほとんどの人が、勝負あったと思ったに違いない。が、不思議な閃きというのが、このときの私にあった。ひょっとしたら、この男、このパットを入れてしまうのではないか―。その閃きには、多少の裏付けがあった。それはこの日、いや、おそらくパーマーが潜在的に持つポテンシャリティというか、魅力を感ぜずにはいられなかったのである。ひどいスイング、ダッグ・フックを打ってもうまくパーでまとめたり、バーディをとってしまうという、私から見れば強引なまでの、パーマーのゲームの迫力である。 パーマーは思った通りに、その8メートルのパットを入れて、ナイスパーをとったのである。マイスターは4メートルのバーディパットを外して、オール・スクエアで、エクストラホールに入ったのであった。エクストラホールの1番。マイスターは2オンしていた。残り10メートル。一方、パーマーは、第2打を横のバンカーに入れていた。ところが、このバンカーショットをうまく寄せてパー。逆にマイスターは、3パットのボギー。結局、パーマーが決勝へと進んだのである。どうみてもパーマーの方が不利という態勢から勝ってしまったのだ。 決勝戦は、ボブ・スウィニーというベテランだったのだが、スウィニーはマッチプレーを続けてかなり疲れていて、もう決勝戦では、エネルギーが燃焼し尽していたという感じであった。若いパーマーが、その若さというエネルギーで、あっという間に勝ってしまったのである。ウイルソンは、ぜひ、彼と契約しようと言い出したのである。正直いってしまえば、私は「まあ、いいんじゃない」という程度の返事しかしなかったのである。パーマー側から、フロリダの私のところへ来て、パーマーと一度会ってみてくれないかということもあったが、私は忙しさを理由に会わなかったのである。ウイルソンとパーマーの契約は、まもなく行われた。しかし、パーマーは途中でウイルソンとの契約をやめて、自分の会社をつくって移ってしまったのである。私は、彼のスター性は十分認めたものの、あまり良い返事をしなかったというのは、こういったビジネスライクな姿勢が、パーマーの背後に見えたからかも知れない。 ![]() 演出家の影がちらつくアメリカ版、下町の玉三郎 パーマーがプロ入りしたのは、1954年の全米アマに勝ってからだ。ツアーに参加したのがその翌年。その年のカナディアンオープンに優勝している。そして、1958年にはマスターズに初優勝。この勢いと平行して、パーマーの人気が全米中に巻き起こったのである。彼が、確かにアメリカのツアーにギャラリーを呼び寄せたといえる。そして、ヒーローとなり、アーニーズ・アーミーという言葉をつくって、熱狂的なファンを組織化させたりした。アメリカのステータスシンボル的な存在になって行くのであるが、これは、かなりの部分で“計算”されたものがあるのだ。キャラクターとしてのパーマーは、確かに魅力的である。そして彼のゴルフも性格もカリスマ的要素は多い。しかし、それを助長させたのは、パーマーの背後にいる辣腕のマネージャーであった。 マーク・マコーマックという男だ。彼は、アマチュア時代から全米ゴルフ協会との接点をもっていて、アマチュアに対するひとつのプロモーションの手伝いなどもしていた。その結果、全米オープンに推薦で出場してみたりとか、いろいろな動きを行っていたのだ。“アピアランス・マネー”という言葉を、ゴルフ界で使うようになったのは、きっとこのマコーマックが最初かも知れない。パーマーの全盛と時を同じくして、マコーマックのパワーも次第に大きくなっていたのである。ニクラス、プレーヤーも彼の中にいて“ビッグ・スリー”という言葉でCMに売り出したりもした。パーマーとマコーマックの関係は、単に選手とマネージャーということだけでなく、公私ともに密着しているといえる。彼らは、大学時代からの友人であった。私が、パーマーについてあまりいい印象を持っていないのは、こういったビジネス的な面での彼らの行動なのである。 いってみれば、パーマーという男は、大衆のヒーローというか、要するに下町の玉三郎的なイメージの強いヒーローだったのだろう。逆にニクラスというのは上流階級というか、ある程度のクラス、地位とか物の考え方とかそういったものがしっかりとしているクラスに受け入れられていた。パーマーが善良な保安官でニクラスが悪役という図式は、パーマーがいかに大衆的だったかを物語るエピソードであろう。一般大衆、どちらかといえば無責任な一般大衆の中のヒーローということになるのだろう。一般大衆というのは、例えばホーガンのプレーを見ても面白くないという人たちである。トラブルに陥らないで絶えずドライバーはフェアウエーに。第2打はグリーンへ。ところが一般大衆がエキサイトするのは、トラブルショットだ。パーマーのプレースタイルが、まさにそうであった。私は、彼と一緒に回ったことがあるが、とにかくよく曲がる。が、別に彼はそのことをあんまり意識していない。「これもゲームのうちさ」と思っているわけだ。その本人が曲がるということを意識していないということが、実は、パーマーの強みだったのである。 ![]() すさまじい荒れ球とみごとなリカバーが身上 パーマーのことを私は“グレート・スクランブラー”と呼びたい。そのくらい彼は、大変なトラブル・ショットの名手であった。とにかく、めちゃくちゃになりながら、スコアをまとめるうまさがあった。ある年、私は、マスターズで彼と一緒に回ったのだが、私が初日、2日目と通算して147で回って、最後に予選通過した年だった。その時の話である。5番ホールに来たとき、私は、ドライバー、そしてセカンドショットを打って、グリーンに乗った。ピンまで3メートルにつけてバーディチャンス。つまり、何の変哲もないように見えるルートで打っていたのだ。ところが、パーマーは、これがたいへんで、ティショットをまず、大きくフックさせてしまう。フェアウエーの左の横から林に入っていたのを第2打で右の方へ出し、ようやく3オン。これがまた、15メートルも残すというありさま。とんでもないのはその次だ。その長い、信じられないようなパットをポコーンと打って入れてしまう。こっちは、3パットでボギー。 「なんであいつが4で、ワシが5なんだろう」 自分自身に腹が立って次のティへ行く気がしなかった。どこへでもボールがとっちらかっていって、本来なら、78、79ぐらいのスコアという内容なのに、このパーマーにかかると、それが、71や72に化けてしまう。1963年の全米オープンでは、林の中の大きな木の切り株の上からショットしたし、ペブルビーチでは、18番の左側の岩の上からショットした。彼は、ボール1個分の穴さえ開いていれば、どんなに危険でもそこを狙ってショットする。冒険と危険、無謀というのは常に背中合わせである。あえてそれを狙うところに彼の魅力があった。そうやっていくつかのトーナメントに勝ち、また失ったのである。いずれにしてもパーマーは、グレート・スクランブラーそのものだった。 私の知る限りでは、彼の父親が彼のスイングづくりにずいぶんと役立ったと思う。そして、彼があのスイングで、なぜあれだけ強くなったかといえば、彼は、クラブを直すのが非常にうまかったからだろう。クラブが全部、彼のスイングに合うようになっているのだ。たとえば、彼のウッドというのは、ダッグフックをどうしても打つスイングなので、クラブのヒールサイドが、全部出ているのだ。普通のクラブよりも、ヒールの部分が飛び出しているという形にして、ダッグフックの出にくいクラブになっている。 傑作な話がある。 パットワード・トーマスという選手が私のニューハンプシャーの家に来たことがある。私の家というのは、その横にちょうど300メートルぐらいティショットを打っても大丈夫なだけの庭があって、ただし右側にはフリーウエーがあるのだが、彼が、そこで球を打たせてくれというのだ。彼のボールは、全部右へ向かって飛んでいってしまう。すごい勢いで、スライス、プッシュアウト……。彼はうまい選手だから、私はおかしいと思って、「どうしたんだ」と聞くと、彼は話し始めた。「実は、先週まで私は、ペンシルバニアのラトローブにいたんですよ」私は、すぐにわかった。彼はパーマーの家にいて、パーマーのそのドライバーをもらって来たのである。「これじゃ右へしか行かん」それは、案の定、ヒールが完全に飛び出していて、形としてはフェースの下の部分が、相当飛行線に対して出っぱっている感じになっているのだ。 「これで打ってごらん」私の持っていたドライバーを貸して打たせると、ボールは、ウソのようにまっすぐに飛んで行ったのである。クラブによって、これだけ違うものだとトーマスは感心していたが、パーマーは、ことほど左様に、クラブづくりがうまかった。つまり、自分のスイングに合ったクラブづくりが、である。実際、彼のラトローブの家の地下には、クラブを十分修理したり、つくったりできるだけの工房がある。 ![]() 今でも旅と遊びが好きで自家用ジェットを乗り回す億万長者 パーマーのスイングは、もちろん、ヘーゲンのそれとは違うが、ゴルフのタイプは、ヘーゲンと似ているところがある。バンカーやアプローチ、そしてパッティングについては、素晴らしいものを持っているのだが、ティショットやセカンドに関していえば、どこへ飛んでしまうかわからないという部分だ。パーマーは、マスターズに、4回勝っている。結局、マスターズで勝てるというのは、あそこは非常にフェアウエーの幅が広く、かりにラフに入ったとしても林までの距離が長いということが、ティショットで正確性のないプレーヤーにとっても有利に試合が展開できるというコースレイアウトなのだ。彼が、全英オープンに勝ったときも、フェアウエーが非常にドライで、ラフもそれほど伸びていない状態で、ボールがどこへでも飛んでいってしまう状態だったからこそ、勝てたのかも知れない。メジャータイトルの3つは、何度か獲ったものの、彼は、全米プロ選手権だけは、未だに勝てないでいる。 パーマーの表面的な部分は、今さらという感じがするから、ここであまり多くを語らない。彼が、プロゴルファーを、プロゴルフ界を、コマーシャルベースに乗せたパイオニアであることは、すでに周知のことだろう。彼の資産を計算したら、おそらく数十億円から数百億円になっているだろうし、そういった意味では、良き友、マコーマックと彼は、大変なビジネスマンといえよう。そして、いい時代にタイミング良く生まれたゴルファーだといえる。そして、彼の持ち前の強運、ガッツ、強さ、チャレンジ精神が、ピタリと一致したのではないだろうか。シャツをズボンからはみ出させた一見品のいい服装とはいえない格好を、アーニーズ・アーミーまで真似をしてしまう。ちょうど1960年代、まだフロンティア精神という言葉が残っていて、ちょうど時代変りしようとしているアメリカの中で、パーマーという男の存在は、大いなる影響をゴルフファンに与えたことは、事実である。 彼は、父親からゴルフを習ったと同時に、彼の奥さんのウィニーにずいぶん助けられたと思う。というのは、彼もごたぶんにもれずプレイボーイだった時期があった(今でもそうだが)。奥さんは非常によく耐えてパーマーを支えたといえよう。パーマーが遊び好きで、彼がいくつになっても旅行するのが大好きというのを見てもわかる。マコーマックと旅に出て、行く先々で大いに遊ぶという、これまた結構なことで、ま、シニアになってもこういう生活のパターンを続けられるというのは、素晴らしいことだ。ウィニーは、よく耐えてると思うが、あまり楽しい家庭生活ではないだろうと思う。 それはともかく、彼は現在シニアツアーで活躍している。正直いって、あのスイングで、これほど長く続けられるとは思ってもいなかったことだ。それは逆に、スポーツの世界の不思議ということであろう。きっと彼は、ゴルフ以外のスポーツのどんな世界に入っていても成功しただろうと思う。スイングよりもガッツ、ファイト、精神力がまさっているのだ。おそらく、三流のスイングで財をあれだけ築いたのは、パーマーをのぞいて誰もいないだろう。彼は、自家用ジェットで飛び回って、管制塔と話をするのが“趣味”だという。そして、最近では中国の広東にゴルフ場をデザインして、まだ財産を増やしているようだ。彼の選手としての活躍は、おそらくあと1、2年かも知れない。しかし、彼はすぐれたマネージャーに囲まれて、今の生活を十分楽しむことはできるだろう。アメリカという不思議な国が生んだ、1人のヒーローであることは、間違いない。 |