●フランシス・ウィメット
(1893年アメリカ生れ、1967年没)
中学生の頃は野球、ホッケーのチームに入ったこともあるが、
11歳で始めたキャディの経験を生かしゴルフチームを作って活躍、
1910年から全米アマをねらい始めた。
1913年全米アマに続き全米オープンにも出場、
英国から参加した2人のスーパースター、ハリー・バードンとテッド・レイを
プレーオフで破り一躍有名になった。
運動具店を経営していたことから、
一時アマチュア資格をハク奪されるが、
世論におされて再び獲得終生アマチュアとして活躍した。
1951年米国人としては
初のロイヤル・アンド・エンシェントGC(英国)のキャプテンに任命されるという
栄誉にも輝いた。
1914年、'31年全米アマ優勝、
'17年ウエスタンアマ優勝、'23年全英アマ準優勝進出。



                 

全米アマ出場資金はなんと借金だった

“はじめにアマチュアありき”――という言葉がある。偉大なアマチュアが誕生してこそ、プロフェッショナルが生まれる。そして、プロは、そのプロ意識でもって、己れの技を磨こうと精進する。ボビー・ジョーンズという偉大なアマチュアが、前人未踏のアマチュアとしての年間グランド・スラムという偉業を果したからこそ、そのジョーンズを目標に、ニクラスや数多くの名選手を生むことになったといってもいい。その意味で、偉大なアマチュアを生むことは、一流のプロフェッショナルをつくるということになるのである。ゴルフが英国から米国へと渡って来て、今や米国は、世界一のゴルフ国として浸透してしまっている。歴史を追うと、全米オープンの第1回開催が、1895年である。本家の全英オープンが、1860年であるから、遅れること35年であった。つまり、米国ゴルフ界の初期の時代である。この当時のオープン・チャンピオンは、たいがいがイギリスからやって来たプロであった。フランシス・ウィメットという人物は、そんな背景から登場した、アメリカ人のアマチュア・ゴルファーであった。

私は、彼が初めて全米オープンに出場したときのことを、よく覚えている。勿論、私はまだ13歳であった。家の近くのゴルフ場で必死にキャディをやり、人目を盗んではボールを打って、プロを夢見ていた頃である。1913年。マサチューセッツ州ブルックリンの、ザ・カントリークラブで行われた全米オープンであった。なぜはっきりと覚えているかというと、その試合は、イギリスからやって来たハリー・バードンとテッド・レイが優勝争いをする展開になっていて、私がキャディをやっていたゴルフ場に来る客が、口々に「今年もイギリス人にトロフィをもっていかれてしまうな」と話をしていたからだ。私は、新聞のゴルフ記事を隅隅まで読んでいた。そこに、フランシス・ウィメットという名前を見たのである。私が小さなコラム記事を見て、彼に興味をひかれたのは、なんとなくその当時の私にそっくりな感じがしたからだ。彼は、当時かなり貧しい生活をしていた。なにせ全米オープンには出たものの、キャディを雇う金もままならず、小さな男の子、確かエディ・ローレンという名前だったと思うが、その子供をキャディ代わりにしていたのである。

ウィメットの家が、たまたまこのブルックリンのザ・カントリークラブと隣接した所に引っ越して来たのが、彼のゴルフとの出合いであった。7歳の時だ。そして、ウィメットは、毎日学校に通うことになるのだが、その通り道が、コースを横切って行く(おそらく近道だったのだろう)という道順だった。彼は毎日、そのコースを通るたびに、ちょっと道草をしていた。それはロストボール拾いだった。行きと帰りにいくつか拾っては家に持ち帰る。そしてフェアウエーが彼の遊び場だった。11歳になった時、彼はキャディとしてそのゴルフ場に勤めることになった。そして“隠れゴルフ”を始めたのである。彼の凄いのは毎朝4時30分から決まってプレーを始めていたことだ。まっ暗なフェアウエーをポーン、ポーンと打って何ホールかすると朝がくる。そして本来のキャディを始める。それが日課であった。1910年。彼が17歳で全米アマに出場したときは、借金をして参加費用の25ドルを払ったのである。この借金は、彼の母親からしたものだが、実は、彼は母親とあんまり仲が良くなかった。それをなんとか頼みこんでの借金である。そして残りの金は洋服屋から、10日間働くということで前借りしたのだ。そんな苦労があったから、全米オープンの出場も、身を削るような思いだったに違いない。

           

イギリスのスーパースターを制し、アマの身で全米オープン獲得

1913年の、全米オープンの話を続けよう。予想通り、イギリスからやって来たスター、バードンとレイが、3ラウンドを終えて、225であがっていた。そこになんとウィメットもいたのである。私はある種のショックを覚えるとともに、大いに期待した。20歳の、しかも貧しくてキャディをしていたアマチュアの若者である。私は、自分とオーバーラップして見守っていた。最終ラウンドは、激しい雨に見舞われていた。どの選手も難しいコースコンディションと雨で、スコアを大きく崩してしまっていた。バードンとレイもやはりそうだった。もちろんウィメットも、である。最終ラウンドは偶然にも、3人とも同じスコア“79”でホールアウトした。通算304ストロークというスコアで、3人のプレーオフとなったのである。

翌日のプレーオフ。ウィメットのキャディであるエディは、まだ10歳の少年だった。彼は大きなバッグをかついで、必死にキャディを務めていた。エクストラ・ラウンドは、肉体的にはエディにとって大変きつかったに違いない。が、気持ちは興奮していた。“ひょっとしたら”と少年の心も高揚していたのだ。新聞記事は、こと細かく伝えていた。私は、もう興奮が止まらなかった。彼のためにも、そして私のためにも、いや、アメリカのゴルフのためにも、と思っていたのである。

プレーオフは、意外な結果だった。しかし、私にとっては喜ばしい結果である。ウィメットが、バードンとレイという、当時最高のスタープレーヤーと互角にわたりあうだけでなく、優勝をさらってしまったのである。アウトを終えて、10番ホールにやって来たとき、ウィメットは彼らとならんだのである。その時のバードンのうろたえぶりは、凄かったという。普段ならコースで絶対タバコを喫わない彼が、タバコに火をつけたのである。ウィメットは、このプレーオフを72であがり、バードンは77。レイは78でホールアウトして決着がついた。

このウィメットの全米オープン優勝で本当の意味で、アメリカのゴルフ、アメリカ人によるゴルフが始ったと言っても過言ではない。それまで、何となくイギリス人のゴルファーにバカにされていたアメリカ人のゴルファーが一気に、この20歳の若者、しかも、アマチュア・ゴルファーであるウィメットが、全米オープンを制覇したことで、変わってしまったのである。フランシス・ウィメットは、その意味でも、アメリカ・ゴルフの生みの親といえるだろう。ゴルフの記事が新聞の一面にとりあげられたのも、実は、このウィメットが最初であった。そしてゴルフが、いっぺんに全米に広まったといえる。彼は、この全米オープン優勝ののちも、プロとしてゴルフをすることはしなかったのだ。生涯をアマチュアとしてプレーしたのである。その意味では、ボビー・ジョーンズの先輩にあたる。いや、ジョーンズですら、このウィメットを夢見て練習に励んでいたのかも知れない。その後、ウィメットは、数々のアマチュアのタイトルを獲ったことは、言うまでもない。勿論その中には、全米アマも入っている。特に1931年から32年にかけてが、彼の全盛期だったと言えるだろう。

彼は、私にとってヒーローそのものであった。ちょうど年齢で7つ違い。背もそんなに高くはなく、といって勿論私よりは多少高いのだが、ハンサムな顔をしていた。私と彼がよく一緒にプレーしたのは、その全米オープン優勝から10年の1920年頃であった。よくボストンへ、私と彼がエキジビション・マッチをしに行ったのを覚えている。そして彼は、その貧しい少年時代からも抜け出すことができたのである。彼が純粋なアマチュアとしてゴルフを続けていくことができたのは、彼がストック・ブローカー、つまり株屋さんであったからだ。そんな株仲間の1人に、株屋J・F・K。つまりジョン・F・ケネディ元大統領の父親、ジョン・ケネディが居た。



私も真似たウィメットのインターロッキンググリップ

純粋なアマチュアとして米国ゴルフ界に残したのは、フランシス・ウィメットとボビー・ジョーンズである。あまり知られてはいないが、このウィメットが与えたインパクトというのは、かなり大きな影響があった。1900年初期という時代背景も手伝って、1913年に彼が全米オープンを制したときの全米ゴルフファンの熱狂ぶりは、ものすごいものがあった。彼こそ“アメリカ・ゴルフ”の生みの親といっていい。本当の意味で、アメリカのゴルフ、アメリカ人によるゴルフが始まった時代といえる。

本業は、株のブローカーであった。少年時代、貧乏暮らしをしていた彼だが、全米オープンに勝った頃から、その運が大きく変化していった。彼は友達にも恵まれていた。株を始めた頃、J・F・K。つまりケネディ元大統領の父親、ジョン・ケネディも、その1人であった。そのほか、ビル・デンフォードとかスミスとかいろんな友達がいたのだが、そのいずれもが、1929年のアメリカ大恐慌の時に、株式市場をよく読んで、大儲けし巨大な富を築いたのである。確かにウィメットも儲かりはしたが、単なるブローカーであったので、ケネディや友達が稼いだ額とは、比べものにならなかったそうである。

私は、ちょうどウィメットが全米オープンに勝った頃、まだキャディをしていた。彼のニュースを聞いてすごく興奮したのを覚えている。私にとってのヒーローが“ウィメット”だったのだ。従って私は、彼の記事は残さず読んだし、彼の真似をしてグリップもインターロッキングにしたのである。もちろん、私だけでなく多くのゴルファーが、「ウィメットのグリップは、最高にいいね。あのインターロッキングを真似しようじゃないか」と、右へならえで真似しはじめたのである。

彼は、『フランシス・ウィメット・キャディ基金』というものをつくったのである。そして、数多くのキャディたちがその基金で大学を卒業できたのだ。おそらく、彼が株で儲けたお金は、ほとんどこの基金に寄付したのだろう。当時、キャディ基金として有名だったのは、彼と、チャールズ・エバンズ基金の2つがあった。このエバンズもアマチュアのゴルファーで活躍した選手であった。ウィメットは、どちらかといえばフラットなスイングをしていた。確かに素晴らしいプレーヤーだったが、そのスイングはあんまり近代的ではなく、どちらかといえば、古いタイプのものだった。

彼のゴルフの中で最も感心したのは、パッティングのゲームだった。その当時、彼は最も素晴らしいパッティングをするプレーヤーであったことは確かである。そのパッティング・スタイルは、どちらかといえば、ボールをタップしていく(つまり叩いていく)打ち方のパッティング・ストロークであった。私が彼とよくプレーしたのは、1920年代だったが、もうグリーンのどこからでもホールアウトしてしまう、カップに入れてしまうという感じがするほど素晴らしいものだった。彼の使っていたパターは、薄いL型のシャフトがやや短いパターであった。シャロウ(shallow)、つまりフェースが浅いパターであったと記憶している。そして、彼は生涯、その愛用のパター1本でプレーし続けたのであった。一度も替えたことがなかった。私の知っている限りでは、米国で“生涯1本のパター”というのは、このウィメットしかいないと思う。日本では、青木功が1本のパターを使っているのは、皆さんすでにご存知だと思うが、名手の中にはこういった、パターと自分が一体となり、どんなときにも、それは自分の“腕”の一部で、道具を替えないという人もいるのだ。

                 

メモリアルトーナメントに名を残す偉大な業績

彼と私との想い出はいくつかある。その中でいちばん忘れられない思い出、というより出来事が、1924年の全米オープンであった。私は1922年の全米オープンに優勝して、華々しいデビューをした。その時2位タイになったのが、ボビー・ジョーンズである。そしてジョーンズは、翌1923年の全米オープンに優勝したのである。そして、私は、この1924年に結婚したのである。ちょうど22歳のときであった。オークランド・ヒルズCCで行われた1924年の全米オープンで、私はウィメットと一緒にプレーすることになったのだ。1番ホール。ウィメットが先に打ち、私がそのあとで打った。私のドライバーは、ウィメットのボールをアウトドライブした。第2打は当然、ウィメットが先に打つわけだが、そのボールを打ったあと、5000人ほどのギャラリーがいっせいにグリーンに向かって走り出したのである。ま、私のファンもいたのだが、やはりその当時、ウィメットのファンというのは、ものすごかったのである。ほとんどが彼のギャラリーといっていい。幸いなことに、彼も私も2オンをして我々はグリーンに向かって歩いて行った。

さて、そこからが問題なのだ。グリーン上にあがったウィメットが、何をしたと思います?
彼は、まずグリーンの真ん中に立って両手をあげて、ギャラリーに向かって、こう言うのである。
“レディース・アンド・ゼントルマン”
“ちょっと聞いて下さい……”という言葉でしゃべり始めたのである。
「たいへん申し訳ありませんが、皆さん、私の話を聞いて下さい」
 一瞬、5000人のギャラリーが、シーンと静まりかえったのである。
 ウィメットは話を続けた。
「私が、今日一緒にまわっているこのパートナーは、実は、一昨年の全米オープン・チャンピオンです。私を応援に来てくださっているギャラリーの皆さん、どうか私の打ち終ったあと動かないで下さい。サラゼンさんのショットのじゃまをしないで欲しいんです。走ったりしないで下さい……」そういうと、静かにパットをしはじめたのである。一瞬、私はあっけにとられたが、その後、ギャラリーは、いっさい私のプレーの時にも動かないで見てくれたのである。私は本当に感激した。プロ、アマを含めて、いろいろなゴルファーがいると思うのだが、あれだけのことを5000人ものギャラリーに向かってはっきり言って、しかもギャラリーがそのプレーヤーの言うことを聞いてくれる、それだけの説得力を持った選手というのは、彼を除いて未だにお目にかかったことはない。以前、ジョーンズの時にも話したが、ジョーンズがアドレスした時に、ボールが動いたのを誰も見ていないのに申告した事実、そして、ウィメットがギャラリーにとった態度。この2つの話は今でも私の記憶に深く残っている。不思議なことに、偶然にもこの2つの出来事は、同じ1924年のことだった。

ウィメットはのちに、R&A、つまり英国のゴルフの本家である、ロイヤル・アンド・エンシェントのキャプテンとなったのである。もちろん、アメリカ人として初めてのキャプテンである。1963年の全米オープンでは、彼の優勝50周年の記念として、ニクラスをはじめ数多くの選手や関係者が、彼を招待してパーティを開いたのである。彼は、その4年後の1967年にこの世を去ってしまった。しかし、彼の偉大さ、米国ゴルフ界に大きく貢献したという事実は、誰の心の中にも深く残っているに違いない。ニクラスが、毎年、偉大な先輩ゴルファーを記念して行っている“メモリアルトーナメント”で、このウィメットやジョーンズをまっ先に記念して行ったということからも、いかに、ウィメットが偉大だったかが、わかるはずである。

                     (語り ジーン・サラゼン 構成・三田村昌鳳)