球聖ジョーンズはエリート出身の天才少年![]() 不思議な縁というものがあるとすれば、 ボビー・ジョーンズと私の関係もその一つかもしれない。 私の記憶が正しければ、ボビーは確か1902年3月17日生れである。 そして私は同じ年の2月27日だから、2週聞くらいしか違わない。 もっとも、少年時代の生活環境はかなりの差があった。 私はイタリア移民の子で、ニューヨークで貧乏暮しだ。 新聞売りをやって、どうしたら一部でも多く売れるかを考えていた頃、 ボビーは、アトランタのアスレチッククラブのジュニア選手権で優勝し、 11歳の時には1ラウンド80で回っていた、バリバリのゴルファーだったのだから。 そして、彼はジョージア工芸大学卒業後、 ハーバード大学に進んで弁護士になる勉強をしていた。 生涯アマチュアという彼の姿勢はそのまま彼の 生活環境や人間性を現していたし、ゴルフの中にも表現されていた。 逆に私はキャディとしてゴルフを知って、 それが即生活ということからのスタートであった。 ![]() そんな2人が1920年代から30年代にかけてよく一緒にプレーもしたし、 よく一緒に行動し、話し合った。 おもしろいことに私たち2人は同じ年の同じ月に結婚したのである。 1924年6月のことだ。 いやもっと奇遇なのは2人のカミさんの名前が同じ『メリー』だったこと。 ボビーと思わず顔をつき含わせて「プッ」とふき出したのを覚えている。 そんなボビーとの初めての出合いは1922年。 20歳、ちょうどスコーキーカントリークラブで行われた 全米オープンでホテルのルームメイトとして、1週間過ごしたのがきっかけである。 彼はいつもスチュワード・メイドンという有名なインストラクターと 旅をしてスイングチェックをしていた。 第一印象はまじめで折り目正しいということだった。 それに大のパーティ嫌い。 ともかくスコアカードを出したらクラブハウスにも寄らずに、すぐ帰ってしまう。 もっともパーティより練習だったのだろう。 今の選手と比較しにくいが、練習好きという点ではその当時なら、 ベン・ホーガンと彼が最右翼であったのだ。 彼はすでに10代からアマチュアのタイトルを獲り、 全米オープンにも17歳から参加していた。 18歳で8位、19歳で5位と、プロを凌駕する存在であった。 この年の全米オープンで彼は3ラウンドを終えて74、72、70と調子をあげて、 ビル・メルホーンとトップに立っていた。 最後のラウンド、ジョーンズはかなり自信を持ってスタートしたに違いない。 私は彼より1時間半前にスタートしていた。4打遅れのスタートだった。 ちょうど彼が10番のティグラウンドに来た時、私は最終ラウンドをホールアウトした。調子が良く、うまくパットも決ってくれて、私は68であがっていた。 あとで聞いた話だが、彼はそのスコアを聞いてかなりショックだったそうだ。 彼は前半36で折り返してきて、 「もし後半も36のパープレーならタイ、少なくとも1打縮めよう」 としたが結果は逆に1オーバーの37。 「ペースを踏みはずすまいとする努力と あとから追いつこうとする努力のむつかしさを知った」 と彼は言っている。 彼は遅いスタートでプレーするのがかなり嫌いだったらしく、 いつもUSGAに10時頃のスタートを希望してよくかけ合っていた。 全米オープンといっても、この年にやっと参加者が323人になったくらいで 当時は成績の悪い順のスタートなどという決りも明らかではなかったのだ。 ともかくこの全米オープンでは、ジョーンズは 結局1ストローク私に及ばず2位となったのだ。 この1週間をきっかけに彼と私はかなり仲が良くなったのである。 ![]() 28歳で引退の原因は大きめのテークバック 彼のゴルフの中で最もすばらしかったのは何といってもロングゲームたろう。 特に3番ウッドとドライビングアイアンに関してはかなわないとさえ思った。 とは言っても、それ以下のクラブ、 5、6番アイアンはお世辞にもうまいとは言えなかった。 ところが彼にはもう1つの切り札があった。 それがグリーン付近のゲームである。 この卓越したセンスの良さはたいへんなものだった。 アプローチがカップの10センチくらいの所に寄ることは、 彼にとっては朝めし前だったし、勿論パターもすばらしかった。 特にセントアンドリュースで沈めたパターはなんと30メートルもあったのだから。 しかしである。 パットがうまいのとは逆に、 後のパッティングストロークというのは決して絶品というものではなかった。 というのは、彼は非常に大きなテークバックをして パッティングストロークをしていたからだ。 テークバックが大きすぎると、インパクトの瞬間に、 微妙な加減をしなければならない。 いわば感覚のシャープな若いうちだけの打ち方だ。 それに、スイングが大きくなればなるほど、タイミングをつかむのがむずかしくなる。 パットよりドライバーの方がタイミングがバラつきやすいのと同じ。 ジョーンズも、選手生活の晩年は、グリーン上でしばしば苦しんでいた。 テークバックのスタートを切るタイミングがなかなかつかめなかったのだ。 パットの名手は、すべてテークバックが“必要最小限”の大きさ、 つまり小さいテークバックをしている。テークバックが小さければ、 インパクトで加減することもなく、常に同じリズムでしっかり打てる。 それで届かなければテークバックを大きくすればいい。 こんな打ち方なら、感覚のシャープさが失われる中年以降になっても打てる。 「パットの名手でテークバックの大きい人はいない」 これは私が60年間、世界中のプレーヤーを見てきて得た結論だが、 日本の青木も米国のワトソンもテークバックは小さい。 現役プレーヤーに限らず、昔の選手でも、 例えばウオルター・へーゲンにしても非常に小さいテークバックをしていた。 事実へーゲンは死ぬまでパッティングはすばらしいものを持っていた。 この小さなバックスイングということに関して言えば、 単にパットだけでなく、ショートゲームにも言える。 うまい人は必ずバックスイングが小さくてしっかりと打つストロークをしているのだ。 ジョーンズのミスパットはボールに近く立ち過ぎた時に多かった。 彼は大きなバックスイングに対してある程度危険度を感じていたのは事実だ。 だからジョーンズのパッティングは、参考にするということに関して言えば、 あまりおすすめできない。 確かに彼もそう言っていたのを覚えている。 勿論彼のすばらしいところはそれをカバーするだけのリズムや、 精神力、集中力を十分に兼ねそなえていたところにある。 しかし彼ほど優れたゴルファーであっても、いや、だからこそかもしれないが、 年齢も、肉体的な衰えというのに自分自身が許せなかったのであろう。 後は28歳という若さで引退していってしまったのだが、 おそらくこのパッティングストロークを変えていたら、 もっと長く選手として活躍し続けることができたかもしれない。 ![]() ボビー・ジョーンズの相手は常に“パー”だった ボビー・ジョーンズという人間の人柄や性格を表すエピソードには、事欠かない。 厳格……。 そう、彼は自分自身に対して最も厳しい人間だった。 例えばそれは、こんな有名なエピソードで知ることができる。 1925年の全英オープンでのことだ。 あるホールで彼は、第1打をラフに入れてしまった。 そこから打って2パットのパー。 グリーン周りにいたオフィシャルが、 「ミスター・ジョーンズ。フォー(4)」 とアナウンスした。 その時、彼は自らこう言った。 「いや、違うんだ。アドレスした時にラフにあったボールがほんの少し動いてしまった。 従って私は“5”だよ」 そう申告し、結局291ストロークとなったのである。 話をつけ加えれば、この291は、ウィリー・マクファーレンとタイのスコアであった。 そして、この自己申告の“1打”のために決着がつかずにプレーオフ。 しかも、そのプレーオフは、翌日1ラウンドでも決まらず 2ラウンドまで長引いてしまったのである。 そして――。 そこでもジョーンズは、148でマクファーレンの147に1打及ばずに2位となったのである。 自分に対して厳しくした上での勝利こそ、真の勝利と思っていたのである。 《オールド・マン・パー》つまり、パーおじさんと仲良くなることで、 彼のゴルフは開眼したといわれている。 パーというものに対して自分のゴルフのゲームプランを立てるということなのだ。 しかし、だからといって、ジョーンズが 常に石橋を叩いて渡るというだけのゴルフをしていたわけでは決してない。 1930年の全米オープンのことである。インター・ラーケン・カントリークラブだった。 そこはロングホールで、グリーン手前に池があった。 その第2打で彼は、果敢にも2オンを狙っていたのだ。 「ほー、奴もギャンブルするんだな」 私はそんな風に“観察”していた。 するとどうだろう。 3番ウッドで放ったボールは、ハーフトップである。 当然のことながらボールは、ミスショットに手頃な その池のド真ん中に向かって飛んで行ったのだ。 彼が、幸運というものに恵まれてるなと思ったのは、次の瞬間である。 ちょうど池の中にあった蓮の葉にボールが当り、 池の先のエッジに行って止まったのである。 彼はそこから巧みなチップ・ショットでカップに寄せてバーディを取ったのである。 もちろんのことだが、彼は常にこんな冒険をするタイプではない。 ジョーンズのうまさは、その使い分けが実にうまいことだ。 勝利の運、ということに関して、彼はこんなことを言っている。 「運、不運というのは、長い目で見れば誰にも公平なものなんだ。 それを信じて練習し努力するしかないのだと思う」 ![]() 彼の偉大な遺産 それは“マスターズ” 1930年に引退した彼は、ジョージア州オーガスタに、 自分の理想のゴルフクラブを造ったのである。 それが現在の“マスターズ”になっているのだ。 このオーガスタ・ナショナルゴルフクラブのコースは、 当初は一級品とはいえなかったのだ。 三級品という評価であった。 それ以降に大きくは12回ぐらい改造していまの一級品になっている。 不思議な縁が、私とジョーンズにあるのだが、 このマスターズを結果的に世界的に有名にしたのは、 私のダブル・イーグルからだと思う。 第2回大会、15番ホールのことだ。クレッグ・ウッドがちょうど282でホールアウトして、 クラブハウスに戻る頃だった。 だれもがウッドの勝利を疑わない。 当たり前のことだ。 私は、まだ15番のティグラウンドにいたが、その時点で3打遅れていたのだ。 残り3ホールで3連続バーディは有り得ないことだと思うのが普通だ。 第1打ナイスショット。 そして3番ウッドでの第2打。 手前の池を超えグリーンに乗ると、ポーン、ポンと消えてしまったのだ。 すでにギャラリーは、18番ホールにいた。 15番グリーンには50人もいただろうか。 私にとって嬉しかったのは、 その数少ない目撃者の1人にジョーンズが混っていたことである。 「エキサイティングなショット、ありがとう」 という一言が今でも想い浮んでくる。 さて、ジョーンズのスイングについてだが、彼の身長は、5フィート6インチ。 米国人として、さほど背が高いとは言えなかった。 そのために大変フラットなテークバックで、 しかもトップ・オブ・スイングで非常に手首のコックを使っていた。 私は、決してジョーンズのスイングが素晴らしいとは思っていない。 ただ、あのトップでのコックがあったからこそ、飛ばせていたのではなかったろうか。 こういった“変則”スイングで数々の勝利を奪えたのは、 年間の試合数が非常に少なかったせいだ。 多いときで4〜5試合ほどだ。 従って、その間、試合がやってくるまでの調整能力というかコンディションづくりが、 うまかったといえないだろうか。 彼が試合に出るまでに調整するのは、タイミングのとり方ではなかったろうか。 何よりも楽しみにしていた私からの便り 彼が引退してオーガスタに住むようになった頃、 私は“シェル・ワンダフル・ゴルフ”という番組で、 あちこちをチャリティ・ゴルフをして回っていた。 そして、私が各地に行くとまっ先にすることは、 私の妻のメリーとジョーンズ宛に手紙を書くことだったのだ。 ある年のマスターズで彼の奥さんのメリーと顔を合わせたら、彼女はこう言っていた。 「ボビーは、いつもあなたの手紙を楽しみに待っているんですよ。 1番楽しそうな顔をして読んでるんです」 そう言ってくれたのを覚えている。 残念ながら、ジョーンズが1971年にこの世を去ってすぐ、 メリー婦人もこの世を去ってしまった。 私は、今でもマスターズに行くたびに彼ら夫婦のお墓参りをしている。 厳格であると同時に、こんな優しさもあった。 有名な話では、マスターズでの“スコア誤記事件”だろう。 トミー・アーロンがロベルト・デ・ビセンゾのスコアを誤って1打多く書き込んで、 優勝のチャンスを逃してしまった、あの事件である。 その時、病床にいたジョーンズは、ビセンゾにこう言ったのだ。 「ルールは、ルールだよ。でも、私の心の中には、 今年のチャンピオンは、2人いたと思っているよ」 私が、ジョーンズから学びとったものは、 おそらくチップ・ショットでもなければ、パッティングでもなかったろう。 むしろゴルファーとして、1人の人間として、 いかにゴルフというゲームに対していくかという姿勢だったのかも知れない。 自分に対して公正にプレーすること。 冒険という甘い誘いに対して、自分がどう対処していくかということ。 もちろん『オールド・マン・パー』もある。 私は、いったい何通の手紙をジョーンズに書いただろうか。 その中で私は、自分のゴルフに対して、 そしてゴルフというゲームの不思議さに対して、何度も書いた記憶がある。 ジョーンズは、69歳という年齢でこの世を去ってしまった。 すでに10数年がたっている。 しかし、私は毎年4月、オーガスタに行くたびに偉大なるゴルファー、 ボビー・ジョーンズと何がしか“語り合い”ながらの1週間を迎えている。 (語り・ジーン・サラゼン 構成・三田村昌鳳) |