![]() 他人を寄せつけず自分の世界に生きたホーガン 不思議な男であった。 いや、彼から私を見れば、私のことを不思議な男だと思っていたのかも知れない。 ともかく、私は、彼と心の中で通じ合うものを、持っていなかった。 とはいっても、お互いに嫌っていたわけではない。 彼我の差は、お互いに岸の違うところで、ゴルフをし、人生を送っていたからだろう。 ベン・ホーガン。彼は私の知っている限り、 ジム・バーンズ以来の、大変なゴルファーだった。 大変というのは、その実力だけでなく、一風変ったという意味もある。 バーンズもそうであったが、ホーガンはかなりの“寂しがり屋”だった。 無口。誰とも話さず、用がなければ、ぶらりと外出することもせず、 いつも家の中にいて、誰とも食事に行かない。 自分一人の世界の中で、生きていた男である。 独りでいることが好きだったのであろう。 自分の世界の中に浸っていることではホーガンは、 一種異様な雰囲気を持って近寄りがたい空気があった。 ジム・バーンズと同じ人間性だといったが、バーンズのことをちょっと紹介すると、 こんなエピソードがある。すぐれたゴルファーで、 私は、確か1925年にアメリカでエキジビションをやったことがある。 彼は、全英オープンに勝ったこともある選手で、なかなかゴルフは強かった。 さて、そのエキジビションで、私はアウトが32、彼が38で 9ホールを折り返したときだったと思う。 ムッとした顔。 少なくとも私にはそう見えて、励ましの声をかけようと思った10番のティグラウンドで、 「ミスター・バーンズ、次の9ホールは頑張って下さい」 と私が言ったところ、急に怒りだした。 「小僧! お前は、お前のゴルフをしていればいいんだ! わしの事なんかに構うな!」 何という人なんだろう。 私はビックリした。 私もムッとなって、徹底的にやっつけてやろうと思った。 結局、10ストロークの差をつけて私が楽勝、溜飲が下がったのだった。 その翌年、私は全米プロで彼とあたって、 2アンド1で私がまた勝つことになったわけなのだが、 それ以来、バーンズのニュースを、聞くことはなかった。 彼のゴルファーとしての寿命は、それで終ったようなものだった。 タイプの全く違う相手と対戦すると、不気味である。 特に、無口で完全主義者タイプの人には、私のような自然のまま、 なるようにしかならないといったケ・セラ・セラ人生を送っている人は、 許しがたいのだろう。信じがたいのだろう。 プレーをしていても、何をやらかすかわからないタイプと、緻密なタイプ。 ホーガンやバーンズのような自分の世界をつくり、 ストイックなまでにゴルフを緻密に考える人と、私は水と油であった。 従って、彼のエピソードは、巷間書かれているような、完璧主義者、 鉄人、そして常にゴルフの完璧を目指して努力しているという事柄だけで 判断すると、すごい人だなという印象、神様的印象を受けがちだが、 私が見る限り、決してそれだけとはいえないのである。 これは一種のパラドックスでもある。 つまり、これからのエピソードは、両極面で考えられると思うのだ。 例えば、こんなのがある。一度、ホーガンに私の持っていた番組で 30秒ぐらいインタビューに出て欲しいという話をしたときである。 「そうだね。金が、かなりかかるよ」この一言だった。 なにしろ彼は、すべてのことを 「金、金、カネ。ビジネス、ビジネス」ということで片付けようとしていた。 私なんぞ、とんと金に縁がなくて、 この点がいちばん大きく彼と合わないところであったのだろう。 確かにプロゴルファーとしての能力はすぐれていて、私はたいへん尊敬していた。 しかし、通じ合わないという点ではめずらしく通じ合わなかった。 なにしろ、他人との間に必ず一定の線を引き、距離をおく。 特に、新聞記者は大嫌いで、最後には、 彼に関してのいろいろな記事を書く人もいなくなってしまったのである。 ![]() 1ラウンドしても交す言葉は一言か二言 彼は、一線を退いてから、クラブを造りはじめていたのだが、 一度、破産してしまったのである。その彼を救ったのがAMFという会社であった。 破産した理由は、一つだった。 彼は、自分に合ったクラブしか造らなかったのである。 つまり、一般大衆に全く受け入れられなかったので、 非常に財政的に苦しくなってしまったのだ。 おそらくAMFが彼の会社を買いとっていなければ、 本当に破産して生きかえらなかっただろう。 AMFは、ベン・ホーガンの名前ごとすべて買って、彼を社長としておいたのである。 それ以来、彼は、マスターズにも参加しなくなった。 彼は金をかけて、たいへん大きな家をテキサスに建てたのだが、 なんとベッドルームが、一つしかないのである。 つまり、お客さんを泊めるゲストルームというのがないのである。 もちろん奥さんは別だが……。 「客も来て欲しくないし、親戚の人も来て欲しくないんだ」 と、私に言ったことがある。 ジミー・デマレは、ホーガンのいい友達であったのだが、デマレが主催していた例のリジェンス・オブ・ゴルフにさえも、ホーガンは、顔を出すことはなかった。 ジャック・ニクラスが、メモリアル・トーナメントで、 数々の歴史的名プレーヤーを毎年記念しているのだが、 それにも、まだベン・ホーガン記念というのがない。 これは、B・ジョーンズをはじめとしてゴルフ界に貢献している人を賛えるのだからと、 ニクラスがホーガンに手紙を書いたにもかかわらず、 ホーガンの方から断ったといういきさつがある。 そこで私は、ニクラスや全米ゴルフ協会の役員で、 そのトーナメントをヘルプしているジョー・ダイ氏に、 「仕方がないから、ホーガンが死ぬまで待ったらどうだろう。 死んだあとは、まわりがいくら彼の名前を使っても、 きっと文句はでてこないだろう」と、何とも無茶なことを言ったのである。 そうなったら、彼が「ノー」ということはできないのだから……。 私には、こんなことをしてまで、いや他人に思わせてまで、 なぜ、自分の世界の中に、独りで閉じこもっていなければならないのか、 全く理解できない。私の方から見れば、彼の人生は、 これでハッピーだとはとうてい思えない。 彼とは、何度か一緒にプレーをしたのだが、18ホールをまわっている間、 ふた言ぐらいしか口をきいたことはない。 もちろん彼は、「ナイスショット」といって、相手のことをホメることもないし、 とにかく、自分のゴルフだけを一生懸命やるというタイプのプレーヤーであった。 よく、ホーガンとニクラスが比較されるが、同じ岸にいながら、 ホーガンとニクラスというのも、また違ったタイプであるのだろう。 いつのマスターズだったか忘れたが、必ず“チャンピオンズ・ディナー”といって、 歴代のマスターズのチャンピオンたちだけが集まって ディナー・パーティを開くしきたりになっている。 その席上で、ホーガンとニクラスがいろいろなことで、 だいぶやり合っているのを横で聞いたことがある。 2人はたいへんすぐれたプレーヤーであったが、 2人の間には通じ合うものがなかったのだろうと思う。 しかし、性格的にというか、人間的に一風変った生き方、 考え方をしていたホーガンであるが、ゴルフに対する真面目さには、 頭が下がってしまう。彼は、いくつかのメジャータイトルをとり、 私、ホーガン、プレーヤー、ニクラスと、4人しかいない“グランドスラマー”でもある。 そして、あわや年間グランドスラムという年もあった。それが、1953年であった。 1953年に3つのメジャーを制す。しかし4つ目は不出場 ベン・ホーガンは1949年に起きた彼のあの有名な交通事故以来、 ゴルファーとして有名になり、またいいゴルフをするようになったといえる。 彼が最初にツアーに出て来た頃は、実は、ひどいスイングをしていた。 いわゆる、首のまわりに巻きつくようなスイングで、体がちょっと疲れてくると、 スイングがうまくできずに、もうダッグフックばかりであった。 日本式にいえば、いわゆる、チーピンショットばっかりだったのである。 もう生きては帰れない、あわや死ぬというぐらいの交通事故に遭って、 奇蹟のカムバックをしたあと、ホーガンのスイングは大きく変ってきた。 まず、テークバックが小さくなった。 ほとんどスリークォーターぐらいのスイングになり、 これがたいへん素晴らしいスイングになったのである。 あのかつての、手首を使って8の字を描くスイングではなく、 ワンピースの、素晴らしいスイングをするようになったのである。 私が初めて彼とプレーをしたのがいつだったか忘れてしまったが、 その時、私が彼に対して抱いたイメージというのは、 まるでハリー・バードンのコピーを見ているような感じであった。 ハリー・バードンもそうだったのだが、 ベン・ホーガンも、“ダッグフック・キャンサー”――つまり、 ダッグフックのガンを持って歩いていたようなものだったのである。もちろん、 ホーガンとて自分が“ダッグフック・キャンサー”であることはわかっていたのだ。 1953年。 彼のハイライトといえば、1940年からこの'53年までの間なのだが、 この'53年に、3つのメジャートーナメントを制したのである。 まずマスターズでは、2位のオリバーに5ストローク差をつける通算274で勝った。 そして、6月の全米オープンでは、 ペンシルバニア州ピッツバーグ郊外のオークモントCCで、 2位のサム・スニードに6打差をつけて通算283で優勝。 7月の全英オープンでは、カーヌスティで、 2位のフランク・ストラナハンに4ストローク差をつける 通算282で優勝したのである。 この3つの試合の勝ちっぷりは、すさまじいものだった。 要するに、完全主義者らしい勝ちっぷりだったのである。 こうなると、誰の目から見ても、話題は次の全米プロに集中する。 もしこれに勝てば、プロとしては初めての“年間グランドスラム”達成である。 ところが、なぜか、この全米プロに出場しなかったのである。 未だに、その謎解きは明らかになっていない。 さまざまな推理が、ゴルフ界を飛び回った。 勝てる自信がないから出なかった、という声もある。 でも、試合に出なければ、勝つこともできない。 いや、もし勝てなかったとしても、別にいいのではないだろうか……。 おそらく、どんな推理も正解にはならない。 かといって、間違っているともいえない。 ただ、私は、なぜ? という気持ちしか持っていないのである。 もう一つ理解できないことがある。 彼は1953年に全英オープンに勝ったわけだが、 その翌年、つまり、ディフェンディング・チャンピオンとして全英オープンには、 絶対、出場しなかったのである。 これも不思議である。 イギリスのゴルフファンは、彼のことをたいへん素晴らしいプレーヤーだと思っていたし、 とりたてて彼がイギリスを嫌っていたわけでもない。 全米プロの件にせよ、 この全英オープンのディフェンディング・チャンピオンの件にしても、 おそらく彼は、不必要なプレッシャーが嫌いだったのかも知れない。 また、彼のプライドが、そうさせたのかも知れない。 きれいに、潔く勝ちたい。 要するに緻密に、洗練されたゴルフで勝ちたいと思うと同時に、 ぶざまな負け方はしたくないということだったのだろう。 彼のことを想像する上で、常に表裏を考えないと誤解されやすい。 一見、素晴らしくも見え、いやな男だとも思える。 両方とも、彼にあてはまるからである。 フェード打ちに変わって奇蹟のカムバックを果す さて、あの瀕死の重傷を負った交通事故は、 彼のスイングをコンパクト化させて、 いいものにしたということもあるがそれだけでなく、 あの事故以来、彼がトーナメントで勝ち続けたという事実もあるのだ。 肩にもだいぶ怪我をして、本来なら、 心身ともに衰えてしまうだろうが、彼の場合は逆だった。 彼はひょっとすると何かを見て生き返ったのかも知れない。 そして、ホーガンの技術に関してだが、 私は誰にもホーガンの技術をいやスイングを真似しなさいとは言いたくない。 あのスイングは彼しかできないスイングなのである。 彼が、自分で自分に合ったクラブしか造らなかったのと一緒で、 一般には難しいのである。 日本でも、彼の書いた『モダンゴルフ』という本がかなり売れて、 聖書のようにゴルファーが持っているという話をきいたことがあるが、 私は彼のセオリーに、あんまり賛成できない。 あのスイングは、彼が毎日、1000発を、 何度も何度も打ち続けてつくりあげたスイングなのである。 試合前の練習はともかく、試合後の練習という習慣は、 実は、ホーガンがつくったのである。 今では常識だが、当時、それほどホーガンは練習をしていた。 なにしろ彼は、練習をしているときでも研究熱心であった。 風が左から右に吹いている所、 つまりフェードボールが打ちやすい所でしか練習をしなかったというのである。 なぜなのか。こたえは簡単である。 そういう状況の中に自分を置いてしまうことによって、 体の中にフェードボールのイメージを全部たたき込んでしまおうというのである。 完璧主義者、なのだ。 彼は、前に話したように、ダッグフック・キャンサーであったのだが、 これをフェードに変えたことで、勝てるようになったともいえる。 そうなると、その秘密を買いたいと、ゴルフ雑誌がどっと集まってくる。 そして、高い金でその秘密を売ったというのが『モダンゴルフ』だとしたら、 私はおかしいと思う。私に言わせれば、 あんなものはお金でどこかへ売るというものでなく、 ストレートに教えてあげるべきだと思うのだ。 ま、それは『モダンゴルフ』にも入っているだろうが、 フックからフェードに変えることなんて、ホントは、一言なのである。 別にどうということもない。 トップで手首をちょっと内側に曲げるという一つのポイントを、 お金で雑誌に売ったわけだが、私は言わないか、 ただでみんなに自分のしていることを教えるか、二つに一つだと思う。 そんなに古くない話だが、マスターズの“チャンピオンズ・ディナー”で、 過去のチャンピオンたちを表彰しようということがあったのである。 もちろん、ホーガンもそのディナーに出席していた。 表彰式はその翌日だったのだが、ホーガンは、その式には出ずに、 さっさとダラスのフォートワースにある自分の家へ帰って行ってしまったのである。 ![]() ホーガンは、かたくななまでに、一つの自分のやり方を通した人間である。 彼と会って挨拶をしても、「やあ、元気かい」の一言で終ってしまう。 彼は一度、奥さんと別れて、そしてまた一緒になったと記憶している。 トーナメントに行くと、奥さんはいつもホテルの部屋で独りで編み物をしていて、 トーナメントの会場には来なかった。 そして彼にはたしか子供もいなかったし、 本人にとってはどうかわからないが 一般的にいう幸せな人生を送っているとは思えない。 彼は“アイアン・マン”というニックネームがついているが、 それほど融通がきかないというか、ゴルファーとしてはすぐれているが、 人間として、そして一般の人たちと決して通じ合うわけでなく、 孤独な人生をここまで送ってきていると思う。 今でも時折、自宅近くの練習場で、 独りでボールを打っているホーガンの姿を見たという話を、聞くことがある。 (語り・ジーン・サラゼン 構成・三田村昌鳳) |