●ウォルター・ヘーゲン
(1892年生まれ、1969年没)
技術的には、
“ピアニストのタッチ”と、
“金庫破りのデリケートさを持った男”
と言われた。
ティショットはあまり得意ではなかったが、
絶妙のリカバリーで再三ピンチを脱したからだ。
テークバックを始める前に頭を右に回す、
いわゆる“ヘッド・コッキング”でスイングを始めるため、
左肩が回りすぎドライバーのミスが出た、というわけだ。
一方、大変なスタイリストで、
フェアウエーにファッションを持ち込んだ
最初のゴルファーと言われている。
メジャータイトル獲得は全米オープン2回、全英オープン4回、全米プロ5回。



             


忘れられないスパゲッティOB事件

ちょうど“ローリング・トゥエンティ”と呼ばれる時代。つまり1929年の世界的な大恐慌をはさむように、私のプロゴルファーとしての時代があった。私が全米プロに勝ったのは、21歳。1922年であった。時代背景は決して明るいものではなく、アメリカ、いや世界中があの大恐慌を前にして何となく騒々しい動きを見せていた頃である。私は、イタリアから移住し、食べるのがやっとという家で、何とか新聞を1部でも多く売ろうと考えて少年時代を暮らし、やがてひょんなことからゴルフと知り合ってプロの道を歩き始めていた。1920年代。世の中が騒々しく、誰もが暗い日々から何かの安らぎや夢を求めた時代でもあった。スポーツの世界で、英雄が生まれてくるのも、そんな時代背景が手伝っているのだろう。ボクシングでは、ジャック・デンプシー。野球では、ベーブ・ルース。そしてゴルフでは、B・ジョーンズであり、大きな夢やあこがれという面でいえば、ウォルター・ヘーゲンであったろう。

彼のキャラクターは、言ってみれば野球のベーブ・ルースみたいな感じだといえよう。ウォルター・ヘーゲンについてのエピソードを頭に浮かべてみると、必ず“笑い”や愉快な1コマ、あるいは夢であり、ウィットとユーモアといったムードが漂ってくる。今でいえば“ショーマン”とでもいうのだろう。ギャラリーを楽しませることに関していえば、トレビノもパーマーもおいつかない。パーマーが、もしヘーゲンを見たら、きっと荷物をまとめて故郷へ帰ってしまうだろう。
さて、ヘーゲンの話は、まず1923年の全米プロ選手権から始めよう。当時は、もちろんマッチプレーで、ちょうどその決勝戦で、私は、ヘーゲンと戦うことになった。いいゲームだった。36ホールズのマッチで、ちょうど34ホールが終っていた。私が1アップしていた。次の35ホール目、17番ホールはパー5のロングホール。私は、第2打を打ち終っても、まだグリーンにとどいていなかった。ヘーゲンは果敢にも2オンを狙ったが、フックして大きく左へ外した。ところが次のショットをぴたりとピンにつけて4。私は5で、オールスクエア。そして36ホール目も分けて、エクストラ・ホールへと進んで行った。次も分けて、いよいよ38ホール目。短いパー4のホールだった。このホールは右へドッグレッグしている。オナーはヘーゲン。ティショットをフェアウエーのド真ん中に打って、意気揚揚としていた。私は、レイアウト通りにスライスをかけて、思い切ってグリーンを狙って打った。ところがスライスでなくフックがかかってしまい、左の林の中へと飛んで行ってしまった。



ピンチを脱しヘーゲンを破る

もう夕暮れが近づいていた。OBかも知れない。意気消沈して林の方向へ歩いて行くと、ちょうどそこにグリーンキーパーの家があって、そのイタリア人のグリーンキーパーは、夕ごはんを食べている最中だった。そう、スパゲティをね。
その家のすぐ手前にOBの境界線があった。スパゲティのいい匂いのする方向へ歩いていくと、そのOBから1メートルぐらい手前にボールは落ちていた。助かった!で、私は、第2打をポーンと打ったら、ピン30センチにピタリと寄って、OKバーディだった。一方のヘーゲンは、フェアウエーのド真ん中から打ったボールが、バンカーへ入った。彼はバンカーショットを全部ピッチショットのように処理する。決してエクスプロージョン・ショットをしなかったのだが、このときもやはり、そのピッチの要領で打った。
ピンをデッドに狙ってきた。果してボールはカップの奥のふちに当った。私は一瞬ハッとしたが、ボールはカップからこぼれてしまったのである。かれは4であがり、私は3であがって、その前年、1922年に次いで2年連続の全米プロチャンピオンとなったのである。
「お前のボールはOBだったんじゃないか!?」クラブハウスに向かう途中で、ヘーゲンが急に言い出した。
「どうしてなんだ」とたずねると、ヘーゲンが仏頂面で言う。
「だいたい、あのグリーンキーパーはイタリア人じゃないか。おそらく、お前のボールは、フックしてあのグリーンキーパーの家の台所に飛び込んだに違いないさ。そうさ、そうだろう。そしてあのスパゲティの上に乗っかんたんだ、きっと。イタリア人は全部お前の味方だから、これはサラゼンのボールだと言って、OBよりも中へ投げ返したんだろう」私は、大笑いしてこう言った。
「なんでそんな想像をするんだ」
「だって、お前のボールには、スパゲティがついてるじゃないか」と言ってヘーゲンはニヤリとする。愉快な性格だった。もっともヘーゲンは、その翌年から4年間、この全米プロに連続優勝するという実力の持ち主であった。



享楽派だったW・ヘーゲン

実際の話、私は、ヘーゲンからずいぶんといろんなことを教わった。彼は大変なプレイボーイで、女の子にとてもモテた。いつもデートばかりしていた。で、ある時私は質問した。「おい。一体どうやってたくさんの女の子の名前を覚えるんだ?それに、知らない子にどうやって声をかけるのさ?」
「なーに、お前、それは簡単なことさ。なにしろ、言う言葉はひとつさ。“ハロー・シュガー(よう、カワイ子ちゃん)”と呼べばいいだけさ」こんな調子であった。大別すると、プレイボーイとノン・プレイボーイ。享楽派と真面目派。あるいはスーパースターとスター。つまりはパーマーとニクラス。ヘーゲンとホーガン。日本でいえば、野球の長島と王なのかな。そんな2つの型がプロスポーツ選手のタイプにあるとしたら、ヘーゲンは前者のほうだ。

1924年。彼が、ホイレークでの全米オープンで優勝した時だ。私は何ホールか見ていたが、こんなことがあった。17、18番をともにパーであがれば、彼は勝つ。その17番の第1打をフックして左のラフ。ここは私が最も難しいホールだと思うのだが、その絶対左へ打ってはいけないところで、彼は左へ入れてしまった。ピンチだ。左からだとグリーン右側にはすぐフェンスがきていて、OBである。左ラフからかなり距離もあり、まずはパーは無理だ。
「打つ場所を間違えたな」って彼に言うと、「いやー、たいした差はないよ」と言って、スタコラとボールのある所へ行って、ピンをデッドにポーンと打ってしまった。つまりそれはOBへ向かって打ったことになる。そして何なく2パットのパー。そして最終ホールも2メートル弱にアプローチを寄せて、それを沈めてパー。優勝である。「まあ、だいたいできるっていうことはわかっていたよ」とサラリと言ってのけてしまう。2位と1ストローク差だった。こんな調子だから、彼と一緒にいると小気味がよかった。



英国王室のプリンスとも友達づきあい

ウォルター・ヘーゲンは、そんなに素晴らしいスイングを持っていたプレーヤーではなかった。私たちは、彼のことを《スラッシャー》と呼んでいた。つまり“ひっぱたき屋さん”だ。とにかく、ポーンと打って、そのボールがどこへ行っても次のショットをまた、ポーンと打つ。で、乗ればポンポンと2パットのパーという感じである。一見、何でもないような彼の動作、ゲームの運び、そしてスイングなのだがショット・メーカーという点で、じっくり見ると、それは素晴らしいショット・メーカーであった。グリーン周りのアプローチもたいへんうまかったし、それからパット。このパットに関していえば、彼ほど素晴らしいパットをする選手は、見たことがない。どんなコンディションのどんな条件のグリーンでもどんどんパットを入れてしまう。感心することには、彼が、グリーンに対して不平を言っているのを聞いたことがないことだ。パッティングがうまかったせいもあるだろうが、グリーンが悪いとか何とか不平を一度も言わない。これはたいしたことだと思う。

それに、プロらしいプロだった。
まず、“粋”だった。いつも特別仕立ての洋服を着て、靴もスペシャル・オーダー。ニッカポッカーとか靴下、靴、シャツ……これらが全てカラーコーディネイトされている。オシャレで気取り屋だった。例えば、そのいでたちでゴルフ場へやってくる。それもクラブハウスの前に、ドーンと横づけする車が、ロールスロイスだったりする。その当時、R&A(ロイヤル・アンド・エンシェント・ゴルフクラブ)は、プロを入れないという習慣があった。で、ヘーゲンはロールスのリムジンをわざとチャーターするのだ。そして、その中で食事をとったり、記者連中を呼んだり、リムジンそのものを社交場にしてしまう。ある時の全英オープンで彼は、上から下まで全部まっ白の衣装をまとってプレーしたことがある。それで85を叩いてしまった。で、帰るときひと言いった。
「来年、来年は勝ってやるさ」英国のギャラリーは、アメリカ人のジョークだと思って笑ってたけど、その翌年には、ちゃんと勝ってしまうのだ。プロ意識が強かった男だ。その意味では、今のプロたちは、彼に感謝しないといけない。プロのために一所懸命努力してくれたと言っていい。

ある年のことだ。私と、ヘーゲンがプリンス・オブ・ウェールズと一緒にサンドイッチのロイヤル・セント・ジョージでゴルフをすることになった。ハーフが終って、「何か飲みものでも飲もうじゃないか」ということになった。そこで、私たち3人は、クラブハウスへと入って行ったときのことである。
R&A、つまりロイヤル・アンド・エンシェントは、ゴルフの総括。今でもゴルフルールは、R&Aが元締めになっている。いわばゴルフのメッカ、日本的な言い方をするならば総本山ともいうべき存在なのだ。今ほどゴルフが大衆化する前は、いささか貴族的な傾向が強く、R&Aのリードのもとに、ここ英国でも、格調高く、伝統と歴史を重んじていたのだ。なんとプロゴルファーは当時クラブハウスになんか入れるわけがなかったのだ。だから、クラブハウスに入ったとたんに、燕尾服を着たウェイターが、プリンス・オブ・ウェールズのところへさーっとやって来たのだ。そして何か耳元でささやいていた。そしたら、プリンスがカーッとなって怒った。
「そんなナンセンスなことは、今後一切やめてしまえ!さもなければ、ロイヤル・セント・ジョージ・クラブの名前から、ロイヤルというのを取ってしまうぞ!」というのである。そのプリンスの言葉で、私たちはクラブハウスで食事ができるようになった。このように私たちプロのレベルアップをはかってくれたのは、ヘーゲンのお陰だと思っている。ヘーゲンは、プリンス・オブ・ウェールズはもちろんのこと、様々な人に好かれていた。ちょっぴり気取り屋さんであったにせよ、社交的で、プロ意識が強く、彼自身の人格が、プリンスを動かしたのだろう。

                

まんまとひっかかったネクタイプレゼント作戦

ヘーゲンと、このプリンス・オブ・ウェールズの2人の話で思い出深いが1928年の全英オープン。それも、このロイヤル・セント・ジョージだった。ヘーゲンは、私より先にホールアウトしていた。292ストローク。私は、ラウンド途中だったが、そのヘーゲンに勝てるチャンスが十分あった。ところが、終盤の2、3ホール。このヘーゲンが、シャレた毛皮のコートを着てプリンス・オブ・ウェールズと一緒にやって来るのだ。そして、私のプレーをずっと見て歩いていたのだ。こうなったら、私が勝てるはずがない。私は、2人のプレッシャーに負けてしまったのだ。

また、たいへんなプレイボーイのヘーゲン。とにかく女の子にモテた。こんな”事件”もあった。これも英国である。彼とは英国での出来事が多い。ある年の全英オープンだった。最終日を前に私はトップを走っていた。その晩のことだ。私の部屋にホテルのボーイがやって来て、何かの包みを私に渡すのである。きれいなリボンがかけられていた。私は、中を開けてみた。見ると素敵なネクタイがあった。そして手紙には、こう書かれていた。
“親愛なるジーン、私はあなたの大ファンです。明日、是非このネクタイをつけて頑張って優勝して下さい。○○より”
有頂天になって、私は最終日、その可愛いであろう女性ファンからプレゼントされたネクタイをつけて、意気揚々とスタートしたのだ。同じ組にヘーゲンがいた。彼には必ず大勢の女の子がギャラリーとしてついているのが常だった。がしかし、私とてこの日は、ネクタイをプレゼントしてくれた可愛い子ちゃんが、きっとどこかで応援してくれている、はずである。何ホールかプレーして、彼と私はいいゲームをしていた。あるホールで流れを変えるキー・ポイントの場面がやって来たのだ。そのとき、何気なくヘーゲンが私に声をかける。
「おい、サラゼン。今日はばかに派手ないいネクタイをしているじゃないか」
「うん。女の子からのプレゼントさ」私は得意気に言った。
「そうか、良かったな。ところでその彼女の名前、○○っていうんじゃないのかい?」ハッとした。何故ヘーゲンが女の子の名前を知っているのか。次の瞬間、私の顔はまっ赤になった。ワナであったのだ。ヘーゲンのいたずらなのだ。ニヤニヤと笑うヘーゲンの顔をまともに見れないまま、私は彼に負けてしまったのである。彼は、ゴルフも素晴らしかったが、そんなイタズラをして、心理作戦にもたけていた。

1935年。マスターズの第2回大会で、あの15番ホールで私がダブル・イーグルを出したときも、ヘーゲンと同じ組で一緒にまわっていた。
 私のあのダブル・イーグルの目撃者。数少ない(23人という話もあるが)、その中にこのヘーゲンとジョーンズがいたのである。ジョーンズは、ギャラリーの1人として、ヘーゲンは同じ組の選手としてだ。私が、ちょうどそのセカンド・ショットを打った瞬間、ヘーゲンが叫んだ。
「入っちまえ!入ったらでっかいパーティをやろうぜ!」そういう叫び声が横から聞こえて来た。そして、ボールは見事にカップに沈んで、そのホール“2”というスコアであがったのである。W・ヘーゲン、信じられない攻め方、ショットで勝ってしまう。彼ほど、プロフェッショナル・ゴルファー、そしてショーマンはいなかったろう。彼は、2度結婚し、2度離婚している。一人息子は最近、ガンで亡くなったと聞いているが、ヘーゲンもまた、ガンでこの世を去ったのである。

               (語り・ジーン・サラゼン  構成・三田村昌鳳)