Tom Morris Sr.

●トム・モリスSr.(1851〜1908)


全英オープンは世界最古の競技である。その第1回大会から、常に優勝、準優勝を勝ち獲っていたのがトム・モリスSr.である。1860年から10年間で、優勝4回、2位3回。最後に敗れた相手は、誰あろう息子のトム・モリスJr.であった。ゴルフ黎明期に父子で名手となった。父は、オールド・トムの愛称で親しまれ、息子は、ヤング・トムと呼ばれていた。オールド・トムは、若き日にセントアンドリュースのアラン・ロバートソンの下でクラブとボール職人として働いていた。1851年にロバートソンのもとを離れて新しく生まれたリンクスコースのプレストウイックに移り、そこでヤング・トムが生まれた。1861、62、64、67年と全英オープンに優勝。そしてオールド・トムは、1865年に再びセントアンドリュースに戻った。その時は、専属プロゴルファーとグリーンキーパーとして迎え入れられた。いまでもセントアンドリュースの18番グリーン脇にトム・モリスのショップがある。

Tom Morris Jr.

●トム・モリスJr.(1851〜1875)


愛称はヤング・トム。偉大な父親のもとで息子のトム・モリスJr.の活躍を見逃すことはできない。当時、最もパワフルなゴルファーと賞され、その能力は父親以上と言われた。事実1868年全英オープンで初優勝したときに最後まで優勝争いをした相手は、父親のオールド・トムだった。それから3年連続優勝。特に1870年のプレストウイックでの全英オープンでは、2位に12ストローク差(当時は36ホール)をつけての優勝だった。その栄光を祝してヤング・トムにチャンピオン・ベルトが授与された。1871年は未開催でそ翌1872年全英オープンでも優勝している圧倒的な強さだった。しかし翌年からの2年間は、2位、3位に終わっている。そして1875年、妊娠中の妻がこの世を去っていまった。一瞬のうちに妻と子供を失ったショックは、ヤング・トムの心を決して癒すことがなく、3ヶ月後にヤング・トムもこの世を去った。セントアンドリュースの丘にある墓地に、ヤング・トムの家族と父親がいまでも眠っている。

Francis Ouimet

●フランシス・ウイメット(1893〜1967)


1913年全米オープンに初優勝するまでフランシス・ウイメットは、まったく無名だった。それもそのはず、マサチューセッツのアマチュア選手だったからだ。その年の全米アマ選手権で2位となって全米オープンに出場した。エントリー費を払うのがやっとという貧困で彼のキャディは、幼い少年だった。しかし当時の名手ハリー・バードン、テッド・レイを相手にプレーオフまで持ちみ、彼は72、バードンは77。レイは78。堂々の優勝だった。コースは、マサチューセッツ州ボストン郊外のザ・カントリークラブ。彼が11歳からキャディをしゴルフを覚えたコースである。ウイメットの優勝は、全米に激震をもたらせた。アマチュア選手の優勝だけでなく、実はそれまで全米オープン優勝者は英国人プロばかりだったからだ。彼の優勝でアメリカンゴルフが始まったと言える。ゴルフ競技が新聞の一面を飾ったのもこのときが初めてだ。その後もアマチュアとして活躍し1951年には米国人として初めてR&Aのキャプテンに任命された。

 


Henry Cotton

●ヘンリー・コットン(1907〜)


1934、37、48年と第2次世界大戦を挟んで全英オープン3勝。特に初優勝した1934年全英オープンの2日目は歴史に残るスコアをマークした。場所は、ロイヤル・セントジョージで初日67で回った彼のゴルフは、2日目も絶好調で、なんと65という当時としては信じられない驚異的なスコアをマークしたのである。しかも1920年代の全英オープンは、米国人選手がことごとくトロフィを持ち去っていた。そこに登場したのがコットンだった。英国生まれ。14歳で英国内のゴルフ選手権に優勝し天才少年と呼ばれ、17歳でプロ転向。努力家の彼は、ベン・ホーガン、サム・スニードと並ぶ名手と称されていた。特に、アイアンの名手で「3番からショートアイアンにいたるすべてが上手かった」とジーン・サラゼンがいうほどだった。また、全英オープンでの驚異的な65のスコアを記念して生まれたのが世界で大ヒットした「ダンロップ65」というボールである。晩年は、故郷を離れてポルトガルに住み、レッスンやライターとして活躍。

 


Bobby Jones

●ボビー・ジョーンズ(1902〜1971)


1930年。ロバート・タイヤー(ボビー)・ジョーンズJr.は、全米オープン、全英オープン、全米、そして全英アマチュア選手権の4つのメジャー・タイトルを1年間ですべて獲得してしまう快挙を成し遂げた。当時28歳。もちろんアマチュアとしてだ。全米アマ5回、全英アマ1回を含むメジャー13勝の偉業を残し、年間グランドスラムを達成して、アマチュアのまま現役を引退。『ニューヨークタイムズ』紙が1面のトップ記事に。彼は『あり得るべき理想に近いアメリカ人』と称されたのは、ゴルフだけでなくジョージア工科大学からハーバード大学へ進み英文学とヨーロッパ史を、再びエモリー大学で法律を学び卒業する前に弁護士の資格を取得。フランス語、ドイツ語も堪能だったからだ。彼の「オールドマン・パーの発見」は、敵は目の前の相手でなく、敵はコースと自分自身で常にパーを目標にプレーするという哲学は世界のゴルファーへの福音である。マスターズの創始者。

 


Tommy Armour

●トミー・アーマー(1895〜1968)


トミー・アーマーは、スコットランドのエジンバラ生まれ。1927年全米オープン、1930年全米プロ選手権、1931年全英オープン優勝している。すでに高校時代に18戦17勝と頭角を表し、1920年フランスアマに優勝、翌年英米アマ対抗戦のウォーカー・カップの英国代表選手に。1924年アメリカでプロ転向、1928年には、今度はプロとしてライダーカップの米国代表に選ばれ母国チームと戦った。素晴らしいアイアンショットの名手で、ダンディで理論家でレッスン上手だった彼は、仲間のプロたちをよくレッスンしていた。また彼は第一次世界大戦で右眼を負傷していた。その眼球がまるで銀のように輝き、鋭いショットを随所に見せることからシルバー・スコット(いぶし銀のスコットランド人)と呼ばれるようになったのだ。のちに、彼はマグレガー社やトニー・ペナらとともにクラブ設計、製作に情熱を注いだ.そのアーマーの名前と「シルバースコット」をつけて売り出されたのがマグレガーの名器として残っている。

 


Gene Sarazen

●ジーン・サラゼン(1902〜1999)


ジーン・サラゼン(本名ユージン・サラゼニ)は、プロゴルファーとして初めてグランドスラム(四大メジャー優勝)達成した人物である。家族はイタリアから米国に移民したが仕事も少なくサラゼンも駅周辺で新聞売りをしたりして家計を助けた。10歳の時にキャディの仕事について独学でゴルフを覚えた。14歳で生死をさまよう病いにかかり、それを機にプロゴルファーを目指した。80を切るのがやっとだった彼が、わずか6年後の1922年に全米オープンに優勝するとは誰も信じなかっただろう。さらにその年に全米プロ選手権に優勝。20歳の若者が1年に二つのメジャータイトルを制した。そして1932年全英オープン優勝、さらに1935年マスターズ優勝とプロとして初のグランドスラム達成。また、サンドウエッジの考案者としても有名。さらに赤十字活動の一環として、世界中を旅してチャリティのゴルフ親善マッチを誰よりも多く行ったプロゴルファーでもある。

 


Walter Hagen

●ウォルター・ヘーゲン(1892〜1969)


その技術的評価は、当時「ピアニストのタッチと金庫破りのデリケートさを持った男」と言われるほど絶妙のショットを繰り広げ、全米オープン2回、全英オープン4回、全米プロ選手権5回の優勝を果たした。彼の評価は単に成績だけではない。「ゴルフ・プロをプロフェッショナル・ゴルファーに変えた人物」としてゴルフ界に大きな影響を与えている。というのも、その当時のゴルフ・プロは、コースに所属してゴルフ場のさまざまな雑役もこなす役割もあった。ヘーゲンは、いまで言うツアープロ、つまり試合だけで生計を立てた最初のプロである。一度だけヘッド・プロをやったが、それはオークランドヒルCCで、しかも改造のために全面クローズしていた間である。「彼がプロゴルファーの地位を高めてくれた」とアーノルド・パーマーは言う。真っ白なロールスロイス、白いタキシード姿のままコースに来て、その車の中で着替えるエピソードは、ハウスに入れなかった当時のプロの地位に対する反抗だったとも言われる。

 


Ben Hogan

●ベン・ホーガン(1912〜199?)


ウイリアム・ベン・ホーガンは、12歳の時に母親と姉弟とテキサス州フォートワースに移る。そこでゴルフと出遭う。18歳でプロ転向。当初の8年間は、フックボールに悩まされた。パワー重視からパワーを抑えて、より正確なショットを打つ練習に取り組む。その間、コーチを受けたひとりにマスターズ、全米プロ選手権勝者のヘンリー・ピカードがいる。そして生まれたのが「ホーガン・フェード」というパワフルで美しい球筋だった。いまもゴルフのバイブルとして世界で読まれている「モダンゴルフ」の原型である。1940年に初優勝。1942年までに15勝。しかし1943年に大戦のため空軍に入隊。ツアー復帰は、1945年秋。復帰後、1946年から1949年までの優勝回数は32勝(1946年全米プロ選手権、1948年全米オープン、全米プロを含む)。が、1949年に大型バスと衝突する交通事故で瀕死の重傷。その不屈の闘志と生命力と練習量で見事にカムバック。事故後の1950年の全米オープンに出場して優勝。鉄人と呼ばれた。

 


Byron Nelson

●バイロン・ネルソン(1912〜)


ジョン・バイロン・ネルソンJr.は、ベン・ホーガンと同じ年にテキサス州フォートワースで生まれた。それもグレン・ガーデンCCのすぐ近くの家で、10歳からキャディを始めた。そのキャディ仲間のひとりにホーガンがいたのだ。この二人は、性格も全く正反対で、互いに刺激的な日々を送っていたという。キャディ大会の初ラウンドは、118打で、翌年には79で回った。20歳でプロ入り。1937年にはマスターズ優勝(42年も)。1939年全米オープン、1940、45年全米プロ選手権優勝とスニード、ホーガンと1912年生まれのビッグスリー時代を築く。また1945年にはシーズン最多の11連勝と年間平均スコア68.33という大記録を達成。また、彼は、いち早くヒッコリーシャフトから当時新開発されたスチールシャフトを採用した。そのスチール用のスイングが、当初は悪評でプロ仲間から批判されたが、それがいわゆる近代につながる美しいワンピース・スイングの基礎となったのである。

 


Babe Zaharias

●ベイブ・ザハリアス(1911〜1956)


ベイブ・ディドゥリクソン・ザハリアス。高校時代にバスケットボールで全米選抜に選ばれ、ほかに水泳、ダイブ、ライフル、ボクシング、ソフトボール投手、テニス……とスポーツ万能。さらに陸上競技でもその才を発揮し、1932年ロサンゼルスのオリンピックでは、槍投げと80bハードルで金メダルと世界新。ハイジャンプでは銀メダルを獲得。その後、ハーモニカとダンスでショービジネスへ。さらにプロのバスケットチームに入り親善試合やフィラデルフィア・フィリーズで1イニング投げたこともある。1934年にゴルフをやり、1940年代には、現在の米LPGAツアーの原型をパティ・バーグなどと創設する。1948〜55年の間に、彼女は通算31勝をマークした。その中には、全米女子オープン選手権(後2勝)も含まれている。1938年には、プロレスラーのジョージ・ザハリアスと結婚。しかし1952年にヘルニアの手術をし、翌年はガンの手術をした。1954年AP通信社の20世紀最大の女性アスリートに選出。が、42歳の若さで死去。

 


Arnold Palmer

●アーノルド・パーマー(1929〜)


1960年全米オープン最終日に65を出して優勝したパーマーを全米が注目していた。それは全米ネットで初めてゴルフ中継されたからだ。アーノルド・パーマーは、文字通りテレビという新しい媒体の幕開けでスーパースターになった男だ。アーニーズ・アーミー(パーマー親衛隊)という熱狂的なファン。ゴルフをビジネスとコマーシャリズムに押し上げた男でもある。1954年に全米アマチュア選手権に優勝。その間ウエイクフォレスト大を卒業し、セールスマンなどをしたあとにプロ転向。1958、60、62、64年とマスターズ優勝。1962年全英オープン優勝など米ツアー通算60勝。60年代のスーパーヒーロー。さらにJ・二クラス、G・プレイヤーとビッグスリーの筆頭となった。その勇猛果敢な攻めとパワフルなハイフィニッシュのスイングは、彼のトレードマークだ。攻撃ゴルフが心情で、そのために圧勝も大敗もあった。その喜怒哀楽のパーマーの姿が、よりカリスマ性を生んだ。

 


Jack Nicklaus

●ジャック・二クラス(1940〜)


オハイオ州コロンバス。ジャック・ウイリアム・二クラスは、10歳の時にはすでにその頭角を表していた。名設計家ドナルド・ロスがデザインしたサイオトCCでゴルフを覚え、12歳から5年連続オハイオ州ジュニア選手権に優勝。13歳で69のスコアをマーク。19歳で全米アマチュア選手権優勝と、その溢れる才能を若き日から発揮していた。父親はドラッグストアを経営。ゴールデン・ベアの由来は、高校時代のバスケットチーム名の「ホワイト・ベア」からつけられた。その類まれな集中力と当時、けた外れのパワーと飛距離がそれまでのゴルフを大きく変えた。ボビー・ジョーンズは「いままで見たことのないゴルフ」と言った。プロ転向直後の1962年全米オープンで、A・パーマーとプレーオフの末、初優勝。これが二クラスをしばらく悪役にさせる結果となった。1972年に巨漢の体重を減らし、髪の毛もGIカットからロングヘアにイメージチェンジ。20世紀最大のゴルファーに選ばれる。メジャー20勝のグランドスラマー。

 


Gary Player

●ゲーリー・プレイヤー(1935〜)


世界のメジャー四冠王は、ジーン・サラゼン、ベン・ホーガン、ジャック・二クラス、そしてゲーリー・プレイヤーの4人である。南アのヨハネスブルグ生まれ。父親は炭鉱で働き、幼い時に母を亡くした。彼は、鍛錬することを惜しまず、小柄な体格にも関わらず、その運動能力はクリケット、ラグビー、サッカー、水泳、トラック競技などで発揮していた。最終的にゴルフを選んだのは15歳の時。その6年後には、南アオープン優勝など13勝。英国ツアーに参加して全英オープン初出場で4位となった。金銭的に恵まれたいなかった彼を地元の名士たちが後押しをして支えた。その翌年に米ツアー参加。1958年米ツアー初優勝。1959年全英オープン優勝。1961年マスターズ優勝とビッグスリーのひとりとして活躍した。プレイヤーほど世界中を飛びまわった選手はいない。世界で130勝以上している。「ゴルフは私のすべて」という彼は、飛行機の中でも腕立て伏せなどトレーニングを欠かさない。

 


Billy Casper

●ビリー・キャスパー(1931〜)


パッティングの神様、ウイリアム・アール・キャスパーJr.は、ビリヤードの名手としても有名だった。13歳の時にハンディキャップ24の少年が、ノートルダム大学を経てプロ転向しツアー参加するまで10年。その2年後にはツアー3勝。その後、レギュラーツアーで51勝を果たした。1959、66年全米オープン優勝。1970年マスターズ優勝。特に66年全米オープンでは、最終日パーマーとの7打差を追いつき翌日のプレーオフでの優勝だった。年間平均ストローク1位に与えられるバードン・トロフィを5回獲得する安定感のあるゴルフ。
そのスイングは、スムースでフィニッシュで右足つま先を左足にスーっと寄せる独特のフォーム。パッティングの極意は「外すんならさっさと外せ」と居直る思い切りが必要だという。1970年には史上2人目の百万ドルプレーヤーとなる。また敬虔なモルモン教徒で何人もの養子をとり、ジュニアゴルフ普及に昔から精力を注いでいる。

 


Patty Berg

●パティ・バーグ(1918〜)


1946年全米女子オープン初代チャンピオンとなったパトリシア(パティ)・ジェーン・バーグは、もともとスピードスケート選手だった。彼女が13歳の時、家の後ろにあるゴルフ場でスイングをして遊んでいたのが、きっかけだった。15歳でミネアポリス市女子選手権に出場。翌年には、同大会でメダリストに優勝を獲得。17歳で全米女子アマチュア選手権の決勝進出。20歳で同大会優勝。通算アマチュアで28勝してプロ転向した。女子プロ協会が未完成の時代で、彼女はその組織づくりと世の中に認知させるために尽力した。初代、全米女子プロゴルフ協会会長としてツアーの基礎を築きあげる。事故で左膝を骨折など体の故障などの不運にもめげずに、彼女はプロとして57試合に優勝している。10種類の殿堂入りと1963年には、ボビー・ジョーンズ賞に輝いている。今も若手育成に貢献し全米ゴルフ協会最高顧問。また1991年、73歳の時にはホールインワンも達成している。

 


Mickey Wright

●ミッキー・ライト(1935〜)


「ベイブ(ザハリアス)二世」と騒がれたのは、彼女がまだ11歳の時だった。本名はメアリー・キャサリン・ライト。9歳から始めたゴルフは、11歳で100を切り、14歳で70を切った腕前。スタンフォード大学卒。しかし彼女の潜在能力を呼び起こしたのは、二人のティーチングプロだった。一人は、ザハリアスのコーチだったスタン・カーテス、そしてアール・スチュアート。長身の彼女から繰り出されるスイングは、男性にも劣らないパワフルな飛距離を生んだ。1954年世界アマ選手権優勝、全米女子オープンのベストアマ。1955年プロ転向。1958年には全米女子プロ選手権と全米女子オープンに優勝。23歳という最年少優勝記録を樹立した。女子のメジャータイトルを13勝している彼女は、後半、左足を痛めて左だけテニスシューズを履いてプレーしていた。1979年、彼女が44歳の時にコカコーラ・クラシックで当時22歳のナンシー・ロペスとプレーオフで最後までロペスを苦しめたのが、最後の優勝争いだった。

 


Lee Trevino

●リー・トレビノ(1939〜)


母親と祖父に育てられたリー・バック・トレビノは、小学校の時には、パー3コースで働いていた。家計を助けるためだ。そして最も稼ぎになったのは、ドクターペッパーの缶を目標にアプローチ合戦をしたり、アイアンの刃先でのパッティング合戦だった。もともと極端なフックボールを打っていたトレビノだが、1960年にベン・ホーガンの練習を見た後にフェードヒッターに改造する決心をし、プロ入り。1965年にテキサス・オープン優勝。さらに1966年全米オープン初出場したが54位。彼は、エルパソでレッスンなどをして生計をたてていた。が、夫人がトレビノに内緒で全米オープンにエントリー、5位となり6000ドルを稼いだ。自信をつけた彼は、数試合ツアーで戦い2万ドル稼ぎ、翌1968年全米オープンに初優勝した。以後米ツアー27勝。全米オープン2勝。全米プロ選手権2勝。全英オープン2勝の業績がある。その巧みな技の数々は、いまもギャラリーを魅了させる。

 


Sam Snead

●サム・スニード(1912〜)


自然児サミエル・ジャクソン・スニードは、バージニアで生まれた。7歳の時、父が勤めるホテルのコースでキャディとして働き、暇なときは、よく山で働きその時に脚力がついたという。スポーツ奨学金で大学へ行き、野球、フットボールなどに参加したがコーチの勧めでゴルフに絞った。それがナチュラル・スイングの始まりだった。20歳でプロ入り。23歳からツアー参加し、車で旅をした。メジャー優勝は、1942年全米プロ選手権を皮切りに、1949、52、54年マスターズ、49、51年全米プロ、46年全英オープンに優勝しているが、全米オープンは、無冠。1937年にチャンスがあったが、惜しくも2打差の2位。以来全米オープンに勝てないジンクス。その美しいスイングの極意を「スイングしているその途中にたまたまボールがある」という意識でスイングすればいいと言っている。また、パッティングに悩んで、両足を揃え、カップに対し正面を向くサイドサドル式スタイルが有名。

 


Jimmy Demaret

●ジミー・デマレ(1910〜1983)


サラゼンに言わせるとゴ、ルフ界の3代プレイボーイは「ウォルター・ヘーゲンとジミー・デマレ、そしてレイ・フロイドだ」と言う。伊達男ジェイムス・ニュートン・デマレは、楽天家ゴルファーだった。着る洋服は常に一流品で派手。最高級車を乗りまわし、プロゴルファーで最初に自家用飛行機を持った男だ。彼は賞金と借金でゴルフ場を作ったり、ゴルフ以外のビジネスにも手を出した。プロ入りは17歳。1940、47、50年マスターズに優勝。特に1950年マスターズでは、最終日アウト39のあとイン30で回り「試合は終わった。さあ帰ろう」とロッカールームで帰る準備をしていたら、首位のジム・フェアリーが4連続ボギーを叩くなど78となり、デマレの逆転優勝となった。「ハッピー・ゴー・ラッキー」つまり喜怒哀楽が激しく、波に乗ったら怖いが、悪いときとの差が激しいゴルフだった。生涯40勝。「人生は一種のゲームみたいなもの」というハリウッド的行き方が心情だった。

 


Harry Vardon

●ハリー・バードン(1870〜1937)


「モダン・スイングの父」と呼ばれたハリー・バードンは、イギリス生まれ。「バードン・フライヤー」というゴルフボールのプロモーションのために米国に渡った時には、すでに全英オープン3勝をしていた(通算6勝は、最多優勝記録)。全米オープン1勝。フックボールに悩んでいたバードンは、もともとベースボール・グリップだった。それを独自に編み出した右手小指を左手人差し指に乗せてスイングしたらフックが治ったことで、このオーバーラッピング・グリップをバードン・グリップと呼んだ。このバードンとジョン・テーラーが、このグリップをしたことから、たちまち世界のゴルファーに広まった。二クラスをして「彼は、ゴルフ史上、最も偉大な技術的先導者」と絶賛させた。彼の出現で古いゴルフが一新され近代ゴルフの道が開けたといえる。その偉業を称えて米ツアーの年間平均ストローク1位の選手にバードン・トロフィーが贈られるようになった。

 


Gene Littler

●ジーン・リトラー(1930〜)


「ジーン・ザ・マシーン」機械のようなスイングの持ち主リトラーのゴルフは、確かに正確無比だった。1953年全米アマチュア選手権に優勝。翌54年には、アマチュアで米ツアーのサンディエゴ・オープンに優勝しプロ転向。その年の全米オープンでも2位となるゴールデンボーイぶりを発揮した。1961年全米オープン優勝。が、マスターズでは、竹馬の友ビリー・キャスパーに、全米プロ選手権ではジュリアス・ボロスに惜しくも敗れて2位となってしまった。リトラーは、穏やかで澱みのないスイングだった。しかし、1972年に左脇の皮膚ガンの手術をするなど不運もあって全盛期を逃している。それも見事に復帰し、翌年には優勝。1975年、45歳の時に賞金ランキング5位になるなど活躍。レギュラー・ツアー最後の優勝は、47歳の時。シニア・ツアーでも活躍しているリトラーの趣味は、クラシック・カー。自宅のガレージには、1920年代のロールスロイスなどがずらりと並んでいる。

 


Peter Thomson

●ピーター・トムソン(1929〜)


1950年代、ピーター・トムソンは、米ツアーでわずか1勝にも関わらず、全英オープンで5回優勝する快挙をやってのけた。10代の頃に覚えたゴルフゲームが開花したのは21歳だった。初の全英オープン挑戦で、いきなり6位。その後7年間(1952〜1958年まで)で優勝4回、2位3回という大記録を残した。5度目の優勝は、1965年だった。面白いことに全英オープン初優勝した1954年は、お金もなく彼は、ラジオと新聞の特派員も兼ねていた。「まさか自分の優勝を電話でレポートするとは思ってもみなかった」と言う。しかし、ツアープロ&レポーターは、その後も続き、いまでもレポートしている。また、トムソンは、コース設計にも造詣が深く、特にマッケンジーが好きだ。ロイヤル・メルボルンなどの改造は、トムソンがアドバイスしている。日本にも馴染みが深く。アジア・サーキットや日本ツアーの発展に大いに貢献している。

 


Johnny Miller

●ジョニー・ミラー(1947〜)


金髪で長身のスリム、しかも派手なウエアと逆Cフィニッシュ。19歳のジョン・ローレンス・ミラーが全米にデビューしたのは、1966年オリンピックCCでの全米オープンだった。当時アマチュアだったミラーは、ベストアマはもちろん総合で8位という成績だった。けれどもミラーの驚異は、1973年全米オープンだった。最終日、怪物コース、オークモントCCを63という恐るべきスコアで回って大逆転優勝。その翌年には、年間8勝するなどミラー旋風を巻き起こした。また1976年全英オープンにも優勝し2つのメジャータイトルを獲得。しかし、マスターズでは、惜しいところで2位となる。1970年代当初、ヤング・ライオンズ(若き獅子たち)の筆頭で、いわゆるアメリカン打法で一世を風靡した。しかし、背骨の故障やパッティングに悩み1980年代は、1勝だけにとどまった。また1994年7年ぶりにAT&Tで優勝しあっと驚かせた。いまはテレビ解説をし、その語りに定評がある。

 


Tom Watson

●トム・ワトソン(1949〜)


ジャック・二クラスに肉薄し、二クラス二世と呼ばれたトーマス・スタージェス・ワトソン。確かに1974年から83年までにメジャー8勝。ツアー28勝という成績を残した。でもスタンフォード大学時代は、まったくパッとしない選手だった。1971年ツアー参加し、あえてメジャーの優勝チャンスがあったとすれば1974年全米オープンだった。最終日を前に首位と1打差。結局79を叩いて5位タイにとどまった。彼は、「このプレッシャーの中でミスした経験が、やがてメジャータイトルを獲る糧となる」と言った。ワトソンの言葉通り、1975年全英オープンでは二クラスとプレーオフで競り勝ち、その後77、80、82、83年と通算5勝を果たしトムソンと並ぶ記録を樹立した。1982年全米オープンでも二クラスと競り、最終日のぺブルビーチ17番ホール、パー3でグリーン奥の深いラフから奇跡的なチップインの決定打で優勝。1977、81年マスターズでも二クラスに競り勝っている。

 


Kathy Whitworth

●キャシー・ウイットワース(1939〜)


15歳の時に、ベン・クレンショーなど数々の選手を輩出した名コーチ、ハーベイ・ペニックに師事したキャサリン・アン・ウイットワースは、19歳でニューメキシコ州アマチュア選手権に優勝。その後、1959年、父親と仕事仲間数人が3年間限定でスポンサーとなり米女子ツアーに参戦した。初年度は、1217ドル獲得。平均スコアも80.30とあまり振るわなかったが、その3年後の1962年には初優勝。賞金も1万7044ドル、平均スコアも74.32と健闘した。まさか彼女が、ツアーで88勝するなどとは父親も仲間のスポンサーも思っていなかっただろう。1963年には年間8勝。賞金女王に通算で16回輝いている。そして女性として初の百万ドルプレーヤーとなった。また1965、67年にはAP通信社選定の年間最優秀アスリートを受賞するなど数々の賞を受賞している。長身で心優しく面倒見もよいところから、協会の副会長などを歴任。1975年にLPGAの殿堂入りを果たしている。

 


Raymond Floyd

●レイ・フロイド(1942〜)


レイモンド・フロイドの父親は、米軍の仕事に従事していた。だからフロイドがゴルフを覚えたのも、裏庭のような米軍のコースだった。彼は、高校時代に優秀なピッチャーでメジャーリーグから当時3万ドルでスカウトされたこともある。彼は、名うてのプレイボーイとサラゼンが言うように、ワインと女性と歌の日々を過ごしていた時代がある。1963年にツアー参加したが、最初の数年間はわずか2勝しただけだった。1969年に全米プロ選手権に優勝するが、ツアー参加後12年間で5勝。「遊びもこのくらいでやめておくか」と1970年代に入って、本格的に? ツアーに専念する。1976年マスターズでは、フロイドが初日に首位に踊りでると二クラスが「あの男がでてきたら勝てない」と早々に敗北宣言して話題になった。二クラスは早くからフロイドの才能を認めていたし、プレイボーイ・タイプのフロイドのゴルフは、読みきれなかったのだろう。メジャー4勝。シニアでも大活躍。

 


Nick Faldo

●ニック・ファルド(1957〜)


1990年のある日、ファルドはベン・ホーガンに「どうしたら全米オープンに勝てますか」と質問した。するとホーガンは「誰よりも最少スコアで回ることだ」と答えた。冗談だと思い、もう一度聞き返したが返事は同じだった。ニコラス・アレキサンダー・ファルドは、英国生まれ。母親は、一人息子の将来を夢見ていた。俳優、ダンサー、モデル、ピアニスト……でも14歳の時にジャック・二クラスがマスターズで優勝したシーンを見て「二クラスのようになりたい」とゴルフを始めた。1975年、18歳になる寸前に彼は全英アマチュア選手権に優勝し、ヒューストン大学にゴルフ奨学生として入学した。でも10週間後に退学し、翌年プロ入りした。19歳。1977年から84年まで欧州ツアーで11勝。さらにデビッド・レッドベターに師事してスイングを磨き圧倒的な強さを見せた。メジャー初優勝は、1987、90、92年全英オープン。そして89、96年にはマスターズ優勝し不動の地位についた。

 


Seve Ballesteros

●セベ・バレステロス(1957〜)


その野性的なゲームは、世界中のゴルフファンに大きなインパクトを与えた。中でも1979年全英オープンは、忘れることのできないセベのシーンだった。当時22歳。彼は、4日間でドライバーがフェアウエイをキープしたのが、わずか8回。普通ならメジャーで勝つことはおろか予選通過もおぼつかない。しかしセベのゴルフは違う。どんなトラブルからでも平然とバーディチャンスにつけてしまう天性の上手さがある。最終日、16番ホール、353ヤード、パー4。第1打を大きく左に曲げて臨時駐車場に。そこからピン4bにつけてバーディとし「カーパーク・チャンピオン」と呼ばれた。1984、88年全英オープン、1980、82年マスターズ優勝。1996年までに少なくとも世界中で60勝以上優勝している。当時のセベ・ファンによるとタイガー・ウッズ以上の闘争心と野性味、そしてアプローチやパッティングの上手さだと評価が高い。幼い時に3番アイアン1本でゴルフを覚え、技を身につけた。

 


Nancy Lopez

●ナンシー・ロペス(1957〜)


ポケットに小銭をチャラチャラさせながら父親は、ナンシーに「それを入れたら5セントあげるよ」と言ったという伝説がある。ロペスの子供時代は、それほど貧しかった。父親は、彼女のクラブを買うために自動車修理をして働き、練習は市営か軍の安いコース。彼女が12歳の時にニューメキシコ女子アマ選手権に優勝。それ以後、ようやくまともなコースで練習できた。1972、75年全米女子ジュニア選手権優勝。その年全米女子オープンに初出場し2位タイとなって一躍有名になった。タルサ大学へゴルフ奨学生として入学したが20歳でプロ転向。22歳までにツアー17勝をマークした。そして史上2番目の3百万ドルプレーヤーに輝いた。ツアー通算48勝。1985年全米女子プロ選手権優勝。1987年LPGAの殿堂入り。しかし全米女子オープンには、惜しいところで勝てないでいる。「いつか、きっとね」といって笑顔を見せる彼女だが、無冠でも彼女の地位と戦績、実力は史上に残る。