●日本人第1号プロゴルファー
神戸・六甲コースに次いで2番目にできた、横屋コースで少年時代キャディを務めていた福井覚治が日本人第1号プロゴルファーである。
福井の家は横屋コースのクラブハウスとして使用され、父親はグリーンキーパーのような仕事をしていた。
生来の器用さからゴルフもめきめきと頭角を表し、クラブ修理も上手く、次第にレッスンをするようになった。
その弟子に7歳年下の宮本留吉がいた。
第1回日本プロゴルフ選手権で、弟子の宮本と対戦しプレーオフの結果 、宮本が優勝している。
しかしこの年の関西オープンでは見事雪辱を果たした。
福井は、胸を病んで療養生活を送った後、選手生活をせずにアマチュアのレッスンやコース設計をしていた。
福井にはふたりの息子がいて、一人はレッスン界の第一人者となった福井康雄。倉本昌弘の師匠で有名である。
もうひとりは福井正一でプロゴルファーであり1970年代はゴルフ解説者としても有名であった。
1930年、38歳の若さでこの世を去っている。
●名コースを残した大谷光明
伊豆・川奈ゴルフの大島コース。
1928年に大谷光明が設計したコースである。
大谷は1885年京都西本願寺第21代大谷光尊門主の三男に生まれ、22歳で英国に留学。
帰国後日本のゴルフ界に大きな影響を与えた。
長身から繰り出すロングドライブ。数々の選手権に優勝するだけでなく、コース設計にもその才能を発揮した。
川奈・大島コース、名古屋・和合ゴルフ、千葉・柏ゴルフ、秩父(現・東京ゴルフ倶楽部)など戦前だけで10コースある。
また、廣野を設計したC・Hアリソンを京都の竜安寺、桂離宮に案内して日本文化を伝えてアリソンの反応を見たという。
それはもともと著名なハリー・コルトに設計依頼していたのだがコルトが高齢で愛弟子を日本に送るといってきた。
その愛弟子の審美眼を日本文化を見せて確かめたかったというエピソードがある。
また英国のプリンス・オブ・ウエールズが来日し、皇太子(昭和天皇)と親善マッチを行ったときにペアを組んだのも大谷光明だった。ほとんど大谷ひとりが奮闘したという記録が残っている。
●アリソン・バンカーの生みの親
スコットランドのタコ壺バンカーほど極端ではないが、深くて手ごわいバンカーを、アリソン・バンカーと呼んでいる。これは名設計家C・Hアリソンが好んだバンカーの手法である。アリソンは、ケンブリッジ大学で造園学を学び、ゴルフ部にも属していた。その後巨匠ハリー・コルトに師事し共同でサニングディール、ウエントワースのイーストコースなどを設計した。初来日は、1930年。東京ゴルフ倶楽部朝霞コース(駒沢コース借地権期限切れのために移転した)設計のためだった。コルトが高齢で愛弟子を推薦したのだった。その設ついでに廣野コース設計の依頼を受けて関西に行く途中、大谷光明、赤星六郎らと川奈に立ち寄ったのである。すでに大谷光明の手で大島コースができあがり、富士コースが建設中だった。しかしアドバイスを受けている途中に、川奈の創始者大倉喜七郎が全面的にアリソンに依頼すると決めて現在の富士コースが世界的なコースとして誕生したのである。
●日本のリゾートコース
長崎県・雲仙ゴルフ場が日本で最も古いリゾートコースである。1912年、明治45年でもちろん現存するコース。続いて1917年に箱根仙石原に富士屋ホテルの付帯施設として仙石原コースが出来た。仙石原コースは、箱根周辺の温泉街とともに日本特有のリゾートコースとして栄えたわけである。ゴルフコースを付帯施設として建設するという発想は、当時の富士屋ホテル社長山口正造が英米でホテル業務を学んだ経験からだった。さらに1920年に軽井沢に12ホールの軽井沢ゴルフコース(旧)が創設された。その8年後に川奈ホテルゴルフコースが生まれたのである。こう考えると日本のリゾートコースの歴史は、日本ゴルフ史とほぼ同じ歴史を持っている。けれども、第2次世界大戦ではゴルフコースは軍部の徴用されたり、閉鎖されたりと途切れてしまったのである。軽井沢ゴルフコースは、その後、軽井沢ゴルフ倶楽部として18ホールがつくられ、旧軽井沢(旧軽)、新軽井沢(新軽)と呼ばれ親しまれている。
●宮本留吉
六甲山のハイキングコースの途中で茶店を営んでいた父親の目を盗んでは、六甲コースのキャディのアルバイトをしていた留吉少年。その合間、切り株をボール大に削ってボール代わり、木の枝をクラブ代わり、空き缶をカップ代わりにして遊んでいた。ようやく(メンバーが捨てた)中古クラブと古ボールで打てるようになったときは誰よりも飛ばしていたという。1926年「日本プロフェッショナル・ゴルファーズ優勝大会」を茨木、舞子、甲南、鳴尾の4倶楽部で主催し、大阪毎日新聞の後援で開催した。これが日本最古のプロ競技で「日本プロゴルフ選手権」の第1回にあたる大会だ。宮本は、これに優勝して一躍「関西に宮本あり」と名を轟かせた。さらに1928年関西オープン優勝、1929、30年日本オープン優勝、1933年関西プロ優勝と当時の四冠王となった。宮本の渡米は1931年。日本ゴルフ協会が宮本留吉、浅見緑蔵、安田幸吉の3名を派遣し宮本が翌年まで残り転戦。ボビー・ジョーンズとの対戦はその翌年だった。
●浅見緑蔵
少年時代、東京ゴルフ倶楽部・駒沢コースでキャディマスターをしていた安田幸吉プロの弟子としてプロの道を歩んだ浅見緑蔵。身長174センチと当時のプロ界では抜群の長身で、その弾力ある身体から繰り出すショットは、天才的と言われた。浅見は19歳の時に、第1回日本オープンに出場し、初代チャンピオンの赤星六郎(アマ)に次いで2位と大健闘し一躍浅見緑蔵の名を轟かせた。翌年には、師匠・安田幸吉、関西の宮本留吉を抑えて優勝。弱冠20歳。さらに1928年日本プロ優勝。1931年日本オープンでは、2位の宮本に4打差の281ストロークで優勝。同年日本プロでは、台湾出身の陳清水を5−3という大差で優勝する活躍ぶりを見せた。浅見の天才的なゴルフと恵まれた体格が、アメリカでも通用するのではないかという期待感から、日本ゴルフ協会が派遣を決めたと言われている。日本プロ誕生の草分け的存在である。後年、日本プロゴルフ協会会長やコース設計などを手がけ、日本ゴルフ界に貢献した。
●黎明期のゴルフコース
1901年、六甲コースが4ホール生まれたあと1904年には横屋ゴルフ・アソシエーション(兵庫・横屋)。そして1906年には、ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション(横浜・根岸)、さらに雲仙ゴルフコース(長崎・雲仙)と続いた日本のゴルフコース。1914年には、鳴尾ゴルフ・アソシエーションが横屋閉鎖のために旧鳴尾競馬場跡に建設した。続いて、東京ゴルフ倶楽部が駒沢に出来たが、1933年に閉鎖し朝霞コースに移転。さらに1940年に現在の埼玉に移転した。1917年仙石原ゴルフコース。1920年に鳴尾ゴルフ倶楽部。舞子ゴルフ倶楽部(兵庫県明石)、軽井沢ゴルフ倶楽部。1922年に程ヶ谷カントリー倶楽部(神奈川)。甲南ゴルフ倶楽部(横屋コース利用)、福岡ゴルフ倶楽部(福岡)と続々と建設された。ユニークなのは、1924年にできた武蔵野カントリー倶楽部である。ここは東京運動記者倶楽部会員たちが集って創立したものである。京王電鉄沿線の南多摩郡平山に9ホールだったが庶民的な倶楽部として人気を集めていた。
●日本選手の幻のマスターズ初出場
日本のプロゴルファーが海外に初めて遠征したのは1929年である。その年、ハワイからフランシス・ブラウンを代表とする5人のアマチュアが来日し日本アマチュア選手権に出場。ブラウンが見事優勝した。そのブラウンの招待で宮本留吉、安田幸吉のハワイアン・オープン出場が実現した。当時のハワイの新聞は「宮本のスイングと飛距離は抜群」と絶賛されている。正式に日本ゴルフ協会が海外遠征を派遣したのは、その2年後である。そして1936年には、その前年からウインターサーキット参加で転戦中の戸田藤一郎、陳清水の二人にマスターズから招待状が届いた。戸田は、予選落ち。陳は20位と健闘している。実は、その前年にも浅見緑蔵、宮本留吉、中村兼吉の3人に招待状が届いていた。しかし、その通知がきたのが2月末。すでに3人が日米対抗のために4月上旬に横浜を出港と決めていて、4月3日からのマスターズに間に合わないと辞退したいきさつがあった。当時の海外旅行は船旅で、急遽の変更が難しかったのだ。
●パンチショットの名手・戸田藤一郎
弱冠18歳でプロゴルフ界にデビューし19歳で初優勝。1939年には最初で最後の年間グランドスラム(日本オープン、日本プロ、関西オープン、関西プロ)を25歳で達成した。当時は、東に中村寅吉、西に戸田藤一郎ありといわれ、努力の中村に対し、天才の戸田と呼ばれていた。そのひとつは当時誰も真似できないパンチショットにあった。スタンスを狭くとって、軸が全くブレないでフトコロが広い華麗なボディーターンで飛距離も270ヤード以上だと言われていた。その戸田もデビュー当時はあまり飛ばなかった。度重なる海外遠征で学んだスイングで飛距離がとてつもなく伸びたという。マッチプレーの鬼だった。ある試合で、相手は18ホールすべてフェアウエイキープし、戸田は、1番ホールだけしかキープできなかった。けれども戸田が勝った。日本オープン2勝、日本プロ3連覇を含む4勝。関西オープン4勝。関西プロ3連覇を含む5勝。またシニアでも当時から44インチドライバーを使って活躍した。
●ゴルフの邦語用語
昭和18年9月に大日本体育協会から正式に発表されたゴルフ邦語用語がある。敵国語を使用しないということだった。カントリークラブのクラブは、打球会になり、クラブハウスのロッカーや金属類は回収された。またクラブも9本に制限した。ちなみに、ゴルフは、打球。ティグランドは、打ち出し区域。フェアウエイは、芝地。ラフは、野地。バンカーは、砂窪。パッティンググリーンは、救孔区域。OBは、逸れ球。キャディは、球童。パーは、基準数。バーディは、隼(はやぶさ)。イーグルは、鷲。ホールインワンは、鳳。パッティングラインは、球の進路。ホールアウトは、球を沈める。プロフェッショナルは、専門選士。スライスは、右曲がり。フックは、左曲がり。クラブは、打杖。ボールは、球孔。もちろん、ウッドは、木の○番と呼び、アイアンは、金の○番。スコアカードは打数票。スコアは、記録。ストロークは、打数。ハンディキャップは、均率。エチケットは、打数作法……という具合に邦語化された。
●一門
西の六甲、東の駒沢。創世記のゴルフ場に集まってきたキャディたちが、やがてプロゴルファーとなる。さらに、そのプロゴルファーを師と仰ぐ弟子たちが集まる。それが、派閥となって、川奈一門、我孫子一門と呼ばれる徒弟制度の人脈となった。駒沢の安田幸吉から、浅見緑蔵が程ヶ谷に移り、井上清次らの程ヶ谷一門を作った。小野光一、鈴木源次郎、そして中村寅吉だ。中村は、そこから寅の子会を。そして、安田の弟子、山本増次郎から林由郎と我孫子一門を。川奈一門は、安田から内田義男、そして石井茂らだった。関西の六甲は、福井覚治から、中上数一が程ヶ谷から霞ヶ関へ行き霞ヶ関一門。宮本留吉は上田悌造を弟子に茨木一門。柏木健一は、戸田藤一郎らと廣野一門という風に人脈と技の秘伝?が継承されていった。寅の子会は、やがて安田春雄、樋口久子を生み、我孫子は、青木功を、程ヶ谷は河野高明を、そして、川奈は、杉本英世を生んだ。さらに茨城は、宮本省三、杉原輝雄らである。
●彗星のように現れた林由郎
戦後、実質的にゴルフ界が復活したのは1950年であろう。日本ゴルフ協会が復活を決議した。そして彗星のように現れて優勝したのが林由郎である。まず1948年関東プロ制覇。50年日本オープン、日本プロ制覇して我孫子一門の名をあげたのだった。戦争から戻った林はゴルフしかすることがなく我孫子でひたすら練習をしていた。林は、最初フックボールを打っていた。ところが関東プロを制して関西に遠征したとき「ディボット跡からのショットをチョロして、バカにされた」ことからスライス系の練習をしたという。当時のフック打ちは、沈んでいるボールは打てなかった。林は、さらに1954年の日本オープンにも優勝し、1952年に日本のプロの渡米が許可されると海外に3年連続して挑戦した。林の門下生には、青木功、尾崎将司らがいる。現役引退後も林の独特なしゃべりとレッスンは人気を集めている。その職人芸は、いまも健在であり、特にバンカーショットの技術は、樋口久子、福嶋晃子へと継承されている。
●大衆化を導いた中村寅吉
1950年代は、中村寅吉一色に塗られたと言っても過言ではない。日本オープン3勝、日本プロ4勝、関東オープン7勝、関東プロ3勝。ほとんどが50年代である。特に1957年に霞ヶ関CCで開催されたカナダカップ(現・ワールドカップ)は戦後初の国際競技だった。中村は小野光一と日本代表として出場し、個人優勝と団体優勝をやってのけた。これを機に戦後のゴルフブームに火がつき大衆化へと進んでいった。努力の人と呼ばれ、旺盛な探求心は、後年、王貞治の一本足打法にヒントを得て50歳を過ぎて20ヤード飛距離を伸ばしたり、毎朝自宅の庭芝を素足で踏んで足の裏を敏感に柔らかくするなどのエピソードもある。また、中村は、林由郎、石井迪夫、島村祐正らと米国タム・オシャンタCCの世界選手権やアジア・サーキットなどに遠征し活躍した。さらに日本女子プロゴルフ協会設立に貢献し、初代会長に就く。樋口久子は、愛弟子である。トラさんと呼ばれて、後輩たちのも親しまれている。
●日本開催のカナダカップ
1956年英国ウエントワースで開催された大4回カナダカップに林由郎、石井迪夫が日本代表で参加した。この大会は1953年ジョン・ホプキンスの提唱で国際ゴルフ協会がカナダのビーコンスフィールドCCで開催したことからカナダカップと名づけられた。後に、ワールドカップとなるわけだが、日本も毎回選手を派遣した。その第4回大会では、団体で4位となり、日本開催への道を拓いた。そうやって実現した第5回大会は、霞ヶ関CCで開催。日本は歴史的な優勝を遂げた。10月24日から4日間。世界30カ国60名が参加した。日本で初めての国際イベントであった。米国チームにはサム・スニードがいて、以来中村と親交を温める仲となった。中村は、大会新記録の14アンダー、274で個人優勝。後に日本が米国に次ぐ世界第のゴルフ大国になったきっかけがこの大会であった。また、1966年に再度日本の東京よみうりCCで開催している。そのときは、杉本英世、河野光隆が出場し杉本はプレーオフに敗れ個人2位。
●台湾の第1期生プロ陳清水
淡水ゴルフ倶楽部の第1期生プロだった陳清水は1927年東京ゴルフ倶楽部の野村駿吉に才能を認められ来日。程ヶ谷CCで浅見緑蔵の下で約7ヶ月間修行した。当時18歳。一度帰国した陳は、1930年W・ヘーゲンが来日するときに再度来日し日本オープンに初出場。陳に日本オープン出場を薦めたのは、赤星四郎、六郎、石井光次郎、宮本留吉らである。これだけの後ろ盾があったのは、それだけ陳のゴルフの才能があったということだ。陳は、宮本留吉、安田幸吉についで3位と期待を裏切らなかった。1931年武蔵野CCの専属プロとなり1937年の日本オープンに優勝するなど大活躍した。安定したゴルフは日本オープンで常に6位以内にとどまるという時代があったことでも証明できる。1953年日本プロ優勝。陳清水が戸田藤一郎とともに米国遠征しマスターズに初出場。20位タイという成績を収めた。その後に台湾選手が日本にやってきて活躍したのは、陳を慕ってのことだった。アマチュアで活躍した陳容の実父。
●ダウンブローの陳清波
1954年5月。陳清水を頼って来日した陳清波は、日本のゴルフ界に大きなインパクトを与えた。ダウンブローというアイアンショットの打ち方。モダンゴルフというワンピーススイング。いまでは当たり前のようになっているスイングの礎が、この陳清波によって日本に広められたのである。当時、ベン・ホーガンの「モダンゴルフ」をそのまま継承・実戦していたのが陳である。1959年日本オープン優勝。62年関東オープン優勝。64年関東プロ優勝など数多くの優勝を果たした。またマスターズにも1963年から68年まで連続6回招待され67年には15位タイという好成績を残した。この記録は1969年河野高明が13位タイになるまで東洋人として最高の成績だった。陳があまりにも強いので、勝たせないために決勝日のピンの位置を故意にドローボールで攻めにくい場所に全部切ったというエピソードも残っている。その温厚な人柄と口調は、プロゴルファーだけでなく一般ゴルファーにも親しまれていた。
●第一次ゴルフブーム
1957年霞ヶ関CCで開催されたカナダカップ(現・ワールドカップ)で日本が団体優勝し、個人でも中村寅吉が優勝したことで日本にゴルフ黄金時代がやってきた。中でも映画関係者、俳優たちがゴルフに熱中し、当時華やかだった映画界にもゴルフグループが続々と誕生した。「月曜会」は、佐田啓二、池部良、宝田明、安部徹、平田昭彦らが中心となっていた。また歌舞伎俳優中心に「草踏会」ができ当時の松本幸四郎、中村芝雀、尾上梅幸ら、そしてNHKの名物アナだった高橋圭三らが集まっていた。この年はゴルフ場建設ラッシュでもあり、龍ヶ崎カントリー、石川県の片山津ゴルフ、青梅カントリー、修善寺カントリーと続々オープンした。この年の第1回世界アマチュア選手権に日本選手も参加して20位。前年の1957年には日本プロゴルフ協会が発足し、初代会長は安田幸吉。当時の会員数は100名前後だった。現在は3000名を越えている。またいわゆるスポンサートーナメントもこの頃に始まった。
●初の海外ツアー遠征
1959年国際ゴルフ協会日本委員会は、日本選手を米国に長期滞在させて本場アメリカのゴルフを経験させることを決めた。選ばれたのは若手プロ2人だった。橘田規と勝俣敏男である。橘田は当時25歳。19歳でプロ入りし、5年後には関西オープンを制覇。廣野ゴルフ倶楽部で技を磨いていた。勝俣も当時25歳。ふたりは「日本と米国の交流。一流プロからの技術習得。トレーニング」の目的でジャック・バーグに預けてそこで修業する。最初は、ゴルフ場のショップで働き、言葉やシステムを覚える。そして午後には練習。「プロショップのこと、レッスンの仕方、勝負はパッティングで決まることなど学ぶことは多かった」と帰国後ふたりは言っているが、言葉の違いなどで苦労し6ヶ月で帰ってきた。ジャック・バーグは「日本のプロはアメリカより30年遅れてた生活をしている」と言っている。しかし橘田はバーグから学んだ水平打法(現在のレベルターンに似ている)をマスターしその後読売プロに優勝するなど活躍した。
●パーマーらビッグスリー来日
1966年。2度目のカナダカップを日本で開催。このときの米国チームは、A・パーマー、J・ニクラス。そして南アはG・プレーヤーとH・ヘニング。大会は米国チームの圧勝だった。その翌年、再びビッグスリーが来日。日本各地6ヶ所でエキジビションマッチを行った。ニクラスは当時27歳。パーマーは38歳。プレーヤーは32歳だった。日本のゴルフファンは、パーマーの地響きのするインパクト。低い弾道から浮上していく鋭いアイアンショット。プレーヤーの巧みなバンカーショット、そしてニクラスの桁違いなドライバーの飛距離に驚かされた。しかもパーマーのカリスマ性やニクラスの冷静沈着なゲーム運びは、後に日本のゴルフを大きく変えることになる。プレーヤーは、これを機に日本びいきとなり日本文化に触れ、さらに自分が所有している競走馬に日本語名をつけている。その後、パーマーの傘マーク、ニクラスのゴールデンベアというワンポイントマークのウエアなどの商品がブームになった。
●和製ビッグスリー誕生
日本にも個性的な選手が続々と登場した。小針春芳、石井朝夫、関西の宮本省三、杉原輝雄らである。杉原は茨城CCの洗濯係として入社しプロゴルファーになった。さらに河野高明、光隆兄弟。特に光隆は兄よりも先に23歳という若さで日本プロのタイトルを獲った。そのときの優勝スコアの15アンダーというのは当時は驚異的なスコアだった。日本プロゴルフ選手権の入場が有料となったのはこの年からである。通し券で1000円だった。そして登場したのが、河野高明、杉本英世、さらに安田春雄である。小柄だがテクニシャンの河野。超ロングヒッターの杉本。アイアンの切れ味が抜群の安田。この若手3人がその後の日本ゴルフ界をリードしていく時代になる。彼らを、元祖ビッグスリーの名を借りて「和製ビッグスリー」と呼ぶようになった。1960年代後半から彼らの時代が続いた。またその頃から台湾選手が次々に日本のトーナメントに出場して台湾旋風を巻き起こした。謝永郁、謝敏男、呂良渙らである。
●リトル・コーノ
名門・程ヶ谷CCでゴルフを修業した高野高明は、身長164センチと小柄だった。しかし物怖じしない勝負強さ、アドレスからスイングに移るまでの間合いのとりかた、パッティングの読みの上手さなど優れた能力を持っていた。球筋を自在に打ち分けられ特にフェードボール、ショートゲームは高野の得意とするところだった。1967年関東オープン、日本シリーズ優勝。68年に日本オープン優勝するなど大活躍。中でも河野は、マスターズ初出場の1969年に堂々13位に入るだけでなく、3日目にベストスコアの68と4日目に17番ホールでイーグルを獲っている。これで一躍「リトル・コーノ」と呼ばれて有名になった。さらに翌70年には12位。このときも初日ベストスコアの68と1番ホールのイーグルがある。また72年も19位。このときもイーグルを2日目の2番ホール、最終日の15番ホールと獲る離れ業をみせている。河野のこのイーグルの記録は、もちろん日本選手唯一人だけでなくマスターズ出場選手の中でも出色。
●ビッグ・スギ、杉本英世
戦後のプロゴルフ界にビッグ・スギ時代を確立しパワーゴルフの元祖となった杉本英世。静岡県伊東市出身で、高校時代は並外れた体格であらゆるスポーツを手がけた。柔道は始めて8ヶ月で黒帯。重量挙げ、草野球。野球は当時近鉄の監督別当薫からプロ野球に誘われたほどの腕前だった。川奈一門の石井茂に師事しプロゴルファーを目指した。川奈伝統のスパイクを履かずに運動靴でラウンドするプロ養成法を実践した。1964年日本オープン優勝したときは中村寅吉が「もうオレの時代は終わった。スギのゴルフを見ているとつくづくそう思う」と言わしめたほどだ。この年来日したパーマーも「国際試合に通用する選手だ」と評した。しかし活躍の反面、67年ハワイアン・オープンの3日目に寝過ごして遅刻し失格する事件があった。日本の大会は1年間出場停止になり渡米しクオリファイングスクール(予選会)を受ける。74名中9位で日本選手初のツアーライセンスを獲得しアメリカン打法を学び取った。
●ショーマン・安田春雄
切れ味鋭いアイアンショットは日本一と言われ、さらにドライバーショットでも飛距離があった。安田春雄は中村寅吉の愛弟子。サービス精神旺盛でギャラリーともよく会話してプレー。独特のガッツポーズは安田の専売特許だった。しかしそのサービス精神が災いして、カップの淵に止まったボールをビリヤードのよううにグリップエンドで打ちペナルティをとられたこともある。当時、アイアンショットの球筋の豊富さでは安田が天下一品だった。左右、高い低い球と自在に打ち分けられた。1968年中日クラウンズ優勝。69年関東プロ、フィリピン・オープン優勝するなど大活躍した。初勝利の中日クラウンズの時は強風で低いボールを意のままに打てた安田が和合コースを制した。しかし安田の弱点はパッティングだった。特にショートパットに難点があった。もしショートパットがもう少し決まっていればもっと勝てただろう。日本のプロゴルファーで最初にレコードを出したのも安田春雄であった。
●関西のドン・杉原輝雄
フェアウエイウッドの名手。グリーンの魔術師。ポーカーフェースの勝負師。そして関西のドン……杉原輝雄につく形容詞である。不屈の精神力と猛練習が杉原を支えた。飛ばないというハンディをフェアウエイウッドの正確さとパッティングで補い、外しごろのワンパット・パーのパットにプロのプライドをかけていた。「飛ばそうと思ったら曲がる。真っ直ぐ飛ばそうと思えば飛距離は落ちる。それがゴルフというものや」プロ入り初優勝が日本オープン。初めての優勝賞金を貰って「これでカミさんでも買いましょうか……」と笑わせた。関西の茨城CCで宮本留吉に師事し、後輩の面倒見もいい。杉原を筆頭に関西の若手プロたちがその後続々と活躍している。中村通、山本善隆、吉川一雄、前田新作などである。杉原はシニアツアーでも活躍したがレギュラーツアーで優勝……は未だ諦めていない。1937年生まれ。「まだ勝ちたい」と本気で考え、前立腺ガンと闘病、ハードなトレーニングをいまも続けている。
●時代を変えたジャンボの300ヤード
ボールが空気を裂き300ヤードに近づく飛距離。アイアンショットの地響き。尾崎将司が登場したとき日本のゴルフは大きく変わった。尾崎の出現でトーナメントが次々に開催されいつの間にか日本が世界第2位のゴルフ大国になった。1971年日本プロ初優勝以来、通算100勝以上をマークした。この記録はおそらく誰も破ることはできないだろう。徳島・海南高時代に春の甲子園で優勝投手となり西鉄ライオンズ(現・西武ライオンズ)にスカウトされ、その後プロゴルファーに転向した。「ジャンボ」という愛称は世界的に名を轟かせた。1973年マスターズで東洋人として初のベスト10入りの8位。それは未だに破られていない。尾崎は、一時スランプに陥ったが復活後のほうがむしろ優勝が多い。そのドライバーの飛距離に加えて正確さを備え、特にアプローチでは抜群の上手さがある。趣味も多彩でギター、歌、車、ワイン、盆栽……それにクラブ論や技術論は他の追随を許さない。杉原、青木に続く永久シード選手。
●世界のアオキ。ニクラスと死闘
我孫子出身の青木功は、デビュー当時、東京タワーと呼ばれた。長身痩身で飛距離もあった。下積み生活をしていた青木は、ジャンボ尾崎出現で挑発されてライバル意識を燃やしツアーで活躍し始めた。我孫子一門の血を引くバンカーショットやショートゲームは抜群に上手く、寄せワンの青木とも呼ばれた。1942年生まれ。1971年関東プロ初優勝。日本と名のつく大会はすべて制覇している。青木は、日本で賞金王になると米ツアーに挑戦し1980年全米オープンでは、ジャック・ニクラスと優勝争いをして2位。「生涯最高のゴルフだった。最終日後半、ニクラスが1回でもミスしたら絶対勝ってやる」と思いながらプレーした。「でも、ニクラスは一度もミスしなかったんだよ」ニクラスにとっても最高のゴルフで対戦したのである。米レギュラーツアーから米シニアツアーに行き、ここでも大活躍している。「オレを支えたのはゴルフに対する好奇心。どこまで突き詰められるのだろうという好奇心と旅ができる健康」という。
●ゴルフ英才教育の申し子
中島常幸は父親の厳しい指導でゴルフを学んだ。自宅に練習場をつくり、人工的に雨(シャワー)を降らしてその下で練習し、古タイヤを引っ張って走り、1日1000発打ちするなどサイボーグとも呼ばれた。1973年日本アマ優勝などアマチュア時代から活躍し1975年にプロ転向。その翌年に3勝するなど才能をいかんなく発揮した。中島はプロ2年目に賞金ランキング5位。1982年初の賞金王をなり、83、85、86年と通算4回賞金王獲得。その一方で米ツアーに参戦、1986年マスターズ8位となったり全米オープンでも前半のヒーロー、全英オープンでは優勝争いに加わったり大活躍した。AON時代。青木、尾崎、中島時代を築く。しかし中島の美しいスイングと評されていたスイング改造に着手してより高いレベルのスイングを求めるあまり成績に精彩を欠くようになっていった。ジュニアゴルフ教育にも情熱を燃やし、若手選手たちと一緒に練成館でトレーニングを欠かさない。中島も永久シード入りしている一人である。
●学士プロ続々誕生
大学ゴルフ部出身のプロゴルファーを学士プロと呼んでいた。それまではキャディから修業してプロにという道程がほとんどだった日本のプロゴルフ界。それが西田升平、沼沢聖一、山田健一、片山康など日大ゴルフ部出身を中心として学士プロが次々に誕生。中でも倉本昌弘、湯原信光、羽川豊は新しい学士プロの波を起こした。倉本昌弘はプロデビューした年に、いきなり6勝しその天才ぶりを印象付けた。倉本は広島県出身で、プロゴルファー第1号福井覚治を父に持つ福井康雄に師事し小さい頃からゴルフを覚えた。「福井さんは、決して叱らなかった。ダメ!という教え方ではなかった」と良き師を語った。アマ時代、日本アマ3勝。日本学生4勝するなどタイトルを総なめしている。小柄ながらずば抜けた飛距離とゲームマネージメントに優れている。それに体力トレーニングをいち早く取り入れるなど科学的なゴルフの分野にも早くから着手していた。米国の選手たちとも親交が深く常に一歩先のゴルフ界を考えている。
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