言葉ではない「歴史」と「伝統」映像の工夫で、
日本のトーナメントはまだまだ面白くなる
1994/08/09
|||||||||| ©三田村昌鳳 ||||||||||
 
マスターズ・トーナメントが初めてテレビ中継をしたのは、1956年である。それまでは、ラジオで試合の模様を放送していた。ラジオは第1回大会からだから1934年からということになる。それまでは、映画館で見るニュースで扱われた。

全米オープンやほかのメジャーが、いつからテレビ中継されたか記憶にないが、ボビー・ジョーンズの優勝シーンやニューヨークでの凱旋パレードの模様などは、しっかりとニュースフィルムに収められていて、いまでもそれは見ることができる。もちろん、全米オープンの大会記録フィルムは、USGA(全米ゴルフ協会)に保存されている。

アメリカの全米オープンのテレビ中継の中で、そんな過去の名勝負のシーンが時折流される。
たとえば、今年でいえば、過去のオークモントCCでの大会模様が流される。マスターズにいたっては、ふんだんに過去の記録フィルムがあるわけで、それらはトーナメントの縦軸(歴史)と横軸(現在)を表現できていて、「歴史と伝統」という言葉を連呼する以上に映像だけで語り尽くされるだけの説得力がある。

さらに米ツアーのトーナメントは、その映像の権利をPGAツアーが保持していて、必要なフィルム、ビデオはどの局でも借りれるし、番組の中で費用さえ払えばいくらでも使えるようなシステムがある。つまり、歴史を共有財産として利用できるわけだ。

いつも思うのだが、日本のトーナメントのテレビ中継を見ていて、あまりにも《いま》という時間にしか焦点を絞っていないような気がする。つまり横軸の現象面にとらわれすぎて、縦軸の積み重ねを軽視しすぎていないかということだ。それはゴルフ中継に限らない。ゴルフ界も同じである。いまがよければいい、俺たちには関係ないのだからと現象だけを追いかけ過ぎてしまうと、尺度も失い、かえって面白さに欠けると思うのだ。

マスターズもそうだが、アメリカでゴルフが、トーナメントがこれだけ大きなマーケットになり注目されたのは、なんといってもテレビというい媒体のお陰である。
1960年代のテレビ時代にパーマー、ニクラス、プレーヤーの3人のスーパースターが出現した。彼らの技量やキャラクターも強烈だったが、それを助長したのは、テレビという媒体であろう。テレビがなければ、パーマーのあのカリスマ性のあるゴルフは全米に伝わらなかっただろう。

日本ではジャンボ尾崎の出現で、ゴルフがテレビの中で躍動した。それが1970年代だった。けれども、日本では、その後あまりにも  《いま》という横軸の現象だけに終始し過ぎて薄っぺらなものになった。アメリカはそこにうまく縦軸を挟むことを忘れていなかった。この差が、日本のトーナメント、その中継をつまらないものにしているひとつの原因でもあると思う。

7月17日の日曜日。
僕は夜、7時から「アポロ13号奇跡の生還」という番組と「全英オープン」の最終日の模様をテレビで見た。いずれも同じ局だった。アポロ13号のそれは非常に高質のドキュメンタリーだった。どんどん引き込まれていった。専門外で知識の薄い僕でもよく理解できるものだった。

また全英オープンのテレビ中継は、逆に散漫な感じがした。専門内の僕でも、途中眠くなったり解りにくかったり、物足りなかったりした。青木功の解説は、絶妙だと思う。やはりひと味もふた味も違うと思う。でも、それがうまく伝わってこない。
アポロ13号では、立花隆さんの緻密な取材力と知識、構成力のうまさに加えて、司会役の小宮悦子さんの素朴な質問が、まるで痒いところに手が届くようにうまくかみ合っていた。

青木さんの解説が立花隆さんの役割だとすると、もう一歩踏み込んで、あるいは噛み砕いて
「ちょっと解らないんですが」
「つまり、どういうことですか?」
という小宮さん役がいないところに、番組の出来不出来の対極を見た気がした。

本来、トーナメントは18ホールが4回積み重なって72ホールをもって1ゲームである。そのひとつひとつの18ホールにゲームの流れがある。従って、テレビ中継も後半の数ホールだけでなく1番ホールからのほうが面白いに決まっている。全英オープンは、その原点をしっかりと中継でも貫いているわけだ。

ところが、そのゲームの流れも見通しにくかったし、青木さんの視点を視聴者の目線にもっと引き寄せて欲しかったと思う。




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©三田村昌鳳